カトリック聖書週間に寄せて

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カトリック聖書週間に寄せて

カテゴリー 折々の想い 公開 [2007/11/09/ 00:00]

鹿児島ゆかりのラゲ訳聖書

鹿児島ゆかりのラゲ訳聖書

来る18日(11月第3主日)から25日までの8日間は、日本司教団が設定したカトリック聖書週間である。あれは何時だったかはっきり思い出せないが、司教団に加わった初めの頃だから35年ぐらいも前のことになろう。わたしはカトリック聖書週間の設定を司教総会に提案し、総会はこれを決議・決定した。第2バチカン公会議が、「聖書を知らないことは、キリストを知らないことである」という聖エロニモの言葉を引用して、「キリスト信者には、聖書に近づく多くの機会が与えられなければならない」(『神の啓示に関する教義憲章』(以下啓示憲章)22)と強調したことを受け、公会議後の教会では聖書への関心が高まったが、わが国では日本聖書協会の聖書普及のための聖書週間しかなかったので、聖書を正しく読んで生きるための、カトリック独自の聖書運動を目指したのである。

カトリック聖書週間を前に、その意義を理解するため、次の2点を明らかにしたい。

第一点は、聖書はキリスト教信仰の源泉として極めて重要であるが、神の言葉を人々に伝達する道は聖書だけではないということである。第2バチカン公会議に貢献した神学者の一人、アンリ・デュ・リュバクはその著書「教会についての瞑想」(Meditation sur L’Eglise)の中で、「聖書、聖伝、教会教導権の三つは、神の言葉を現代に運ぶ三重にして唯一の運河である」と書いているが、その考えを取り上げた公会議は、「聖書と聖伝とは、教会に託された神の言葉の一つの聖なる委託物を形造っている。・・なお、書き物、あるいは口伝による神の言葉を正しく解釈する役目は、キリストの名で権威を行使する教会の生きた教導権だけに任せられている」と述べ、「それで、聖伝と聖書と教会の教導権とは、神のきわめて賢明な配慮によって、一つは他のものから離れては成り立たず、全部がいっしょに、そしておのおのが固有の仕方で、聖霊の働きの下に、救霊に有効に寄与するように、互いに関連し、結合されていることは明らかである」(啓示憲章10)と教えている。

以上のことが、聖書のみ(Sola Scriptura)を信仰の規範とし、自由解釈を重視するプロテスタントとは異なる、カトリック独自の聖書週間を設定した一つの理由である。ついでに思い出しておきたいのは、新約聖書から教会が生まれたのではなく、教会から、正確には、教会の使徒的伝承の中で新約聖書が生まれたということである。そして教会は、聖霊の導きのもとに聖書の正典を決定し、また、人類と共に歴史を歩みながら時のしるしに啓発されて聖書と聖伝に含まれる神の言葉の理解を深めてきた。教会教導権の教え、たとえば『カトリック教会のカテキズム』はその証である。

第二点は、邦訳聖書の選択と聖書の読み方についてである。公会議は「生活における聖書」について次のように述べる。「教会の信者たちが、安全かつ効果的に聖書に親しみ、その精神を汲み取れるよう、必要かつ充分の註釈付きの聖書の訳によって、聖書、特に新約、その中でも福音書の正しい使用を教えるのは、『使徒的教えの受託者』たる司教たちの務めである」(啓示憲章25)。聖アウグスチノが言うように、聖書はカトリックの信仰をもって読むときに始めて完全な意味を持つからである。

現在、わが国には種々の邦訳聖書があるが、公会議が言う「註釈付きの聖書」と言えばカトリック訳の聖書だけであって、プロテスタントの聖書には上記の理由で註が付けられていない。新共同訳にも註がない。要注意である。ちなみに、カトリックの聖書の中でフランシスコ会聖書研究所訳註の分冊で刊行されている『原文校訂による口語訳聖書』(新旧約)は、註解の部分を再校訂しかつ縮小して合本で発行されると聞いているが、一日も早いその実現を期待したい。いずれにせよ、わたしたちは公会議の指示に従い、教会教導権の教えに導かれながら、日々聖書に親しみ、み言葉に従って信仰と祈りを深めてゆかなければならない。

ここで今懐かしく思い出しているのは、長崎教区で広報委員長をしていたころ、もちろん第2バチカン公会議後であるが、「各家庭に聖書を」をスローガンに聖書を広める運動を行い、大量の聖書をまとめて購入して卸値で頒布したことである。今では聖書のないカトリック家庭はないであろうが、願わくは子どもや孫たちに、日々聖書を読んで祈る習慣をしっかり伝えて欲しいと願っている。