キリスト教の極致は見神
カテゴリー 折々の想い 公開 [2007/11/25/ 00:00]
コスモスと秋空過去30年来、わたしはある「婦人読書会」に出ている。鹿児島カトリック女性信徒の会が主催する読書会で、毎月第1月曜日に集まって回勅や使徒的勧告などの教皇書簡を読むのである。前回は、現教皇ベネディクト16世の初の回勅『神は愛』の最終回で「結び」を読んだ。いろいろな質問があったが、その中の一人は、「修道士は愛そのものである神と『顔と顔とを合わせて』出会いました」(n.40)とあるが、顔と顔とを合わせてとはどういう意味かとの質問である。
なるほど、聖パウロが言うように「顔と顔とを合わせて神を見る」とは天国における「至福直観」(1コリント13,12参照)意味していて、この世で顔と顔とを合わせて神に出会うとは聞きなれない表現である。わたしは次のように答えた。この表現は擬人法的な表現で、厳密な意味ではなく広い意味の「神を見る」でしょう。神の観想に明け暮れる修道士は、世界の中に、さまざまな出来事の中に、何よりも隣人の中に神を見て、愛の業に励んでいたということでしょう、と。
長崎に松下佐吉神父という大先輩がいた。わたしがまだ駆け出しで長崎大司教館に勤務していたころ、彼は毎月五島から出てきて司教館に泊まっていたが、用事が終わると決まってわたしの部屋に来て、夜遅くまでいろんな話しをしてくれた。あるとき彼はこう言った。「禅の極致は見性にあり、キリスト教の極致は見神にあり」。
確かに禅仏教では神について語らない。語らないばかりか、断固として超越的な人格神を認めない(参照:H.デュモリン著『仏教とキリスト教との邂逅』1975・春秋社)。禅定においてはもっぱらものの本性を徹見して悟りを開こうとする。たとえそこで超越的な実在、あるいはさらに究極の実在に触れたとしても、決してその実体について語ることはない。これに対して、キリスト教では肉眼では見えない神が心の目(心眼)では見ることができると教え、上に述べたように、至福直観をもって人生の究極の目的としている。
さて、キリスト教は神を見るための三つの段階について語る。第一の段階は、理性の働きによって神を見る(知る)ことである。つまり、この世界の秩序の美を通して、創造者である神を認めるのである。聖パウロは言う。「神の永遠の力や神性のような、神についての目に見えない事柄は、宇宙創造の時から、造られた物を通して明らかに悟ることができます」(ロマ1,20)。従って、生まれながらの無神論者はいないと言われる。「たとえ自分の理性によって万物の創造主である神を認識するまで至らなかったとしても、それは理性の欠陥に帰すべきではなく、むしろ自分の自由意志とその罪によって立てられた障害によるのです」(回勅『信仰と理性』19)。
第二の段階は信仰によって神を知ることである。人間となった神の子キリストは言われる。「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14,9)。だから、キリストを人間となった神の子であると信仰によって認める者は、キリストの中に父なる神を見るのである。こうして、先に言ったように、キリストを信じる人は世界の中に、すべての出来事の中に、そして隣人の中に神を見ることができるようになる。中でも、社会的弱者、すなわち、飢えている人、渇いている人、旅をしている人、裸の人、病気の人、牢獄にいる人の中にキリストを見る(マタイ25,35-36参照)。
第三に、従って最後に、至福直観を通して神を見ることである。終末におけるキリスト再臨の日、体の復活を遂げた人間の目は霊化され、高揚されて、神に見られるように神を仰ぎ見て至福に浸る。それは、もはや苦しむことも死ぬこともない、いのちの充満を永久に生きることを意味する。これが人間の究極の目的であって、地上の生活のすべてはここに方向付けられている。実に、キリスト教の極致は見神である。
来る12月2日の日曜日から教会は待降節に入る。見える者となってこの世に来られる神の子キリストを迎えに急ぐためである。今年も、一人でも多くの人が見える神に出会うことができますように! キリストは断言された。「心の清い人は幸いである、その人は神を見る」(マタイ5,8)。