80回目の正月に思う
カテゴリー 折々の想い 公開 [2007/12/26/ 00:00]
門松80回目の正月を前にしてこの一文を綴っている。日本人の平均寿命を超える、ずいぶんと長い人生をいただいたものである。戦前、戦中、戦後を経て今日まで、めまぐるしく変わっていった時代に生きてきて、出遇った様々な人や出来事を感慨深く思い浮かべている。そして今年は、どうしてか長い間忘れていた「年の始めの歌」を思い出した。
年の始めのためしとて 終りなき世のめでたさを
松竹立てて門ごとに 祝う今日こそ楽しけれ
年の初めという節目に、生かされていることの喜びを謳歌する日本人の楽観主義が見て取れる。そういえば、キリシタン一家であった我が家でも、ただの習慣として、松と竹を組み合わせただけの素朴だが本物の門松を立てて正月を迎えていた。そして元日の朝は、家族揃って「一帳羅」(いっちょうら)を着込み、教会のミサへと急ぐのだった。
しかし、人生は喜びばかりではない。仏教は生老病死と人生の四苦を表現するが、生きる厳しさ、病気や老いの苦しみ、そして遂には死によっていのちの喜びは絶たれる。
元日や冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
一休禅師の作といわれるが、これも日本人の心の琴線に触れる。元旦ミサの説教でも引用される句であり、わたしもそうしたことがある。2007年も様々な事件や事故が起こり、多くの仲間や友人が旅立って行った。そして無数の人々が天災や人災で不幸に見舞われ、心身の悩みや苦しみに耐えてきた。だから薄幸の作家、林芙美子の言葉も思い出されよう。
花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき
人生には楽しいことも多いのだが、なぜか苦しいことばかりが思い出されてくる。こうした日本人の心情をわたしたち日本人キリスト者も共有している。ただ、そこに諦観はなく、悲観主義もない。わたしたちが三位一体の神の愛を信じ、「からだの復活と永遠のいのち」への確かな希望に生きているからである。前教皇ヨハネ・パウロ2世は言われた。
「キリストはわたしたちの苦しみを取り除くためにではなく、分かち合かち合うために来られました。人類の苦しみを自らのものとすることにより、苦しみに救いの価値を与えられたのです。つまり、キリストは人間の条件を身に帯びることを望み、それによって限界ある人間を救われたのです」(98世界病者の日のメッセージ)
だから、苦しいことの多いこの世でも、喜びと希望の中に新しい年を迎えることができる。しかし、「一年の計は元旦にあり」とも言われる。キリスト者にとって元日の計とはなんだろう。それはまず、まだ何も書かれていないまっさらの私の一年を、「霊的ないけにえとして」まず神に捧げることではなかろうか。聖ペトロは勧めている。「あなたがたも聖なる祭司となり、イエス・キリストを通して、神に受け入れられる、霊に生かされたいけにえを捧げなさい」(1ペトロ2,5)。神からの愛の賜物であるこのいのちは、神への愛と感謝の捧げものとしてお捧げするのが当然である。元旦の朝、教会のミサに急ぐカトリック信者の姿はそのあかしである。こうして、わたしたちの新しい一年は「聖なるもの」、つまり神に捧げられたものとなるであろう。
では、わたしたち人間の貧しい捧げものが「神のみ旨に叶う」ために何が必要なのだろう。モントリオール大神学院のある倫理神学教授が書いた教科書のタイトルは示唆的である。
“Soyons justes, mais par-dessus tout la charité”
(正しく生きよう、しかし、何よりも愛を)
「正しく生きる」とは何か。それは正義を守ることであって、分かりやすく言えば、自分の義務(務め)を果たすという意味である。神を信じてこれに仕える義務、隣人の尊厳や人権を認めてこれを擁護する義務、そして、自分のいのちを守り、身分・立場・職業上の義務を大切にすることである。
「何よりも愛を」とは何か。何事をなすにも、すべての行為において「愛を込めて行え」との意である。聖パウロは言う。「愛がなければ、わたしにはなんの益もない」(1コリント13,3)。さらに言う。「これらすべてのことの上に愛をまといなさい。愛は完全さをもたらす帯です」(コロサイ3,14)。ラゲ訳では「愛は完徳の結びなればなり」となっている。私はこの訳が好きだが、いずれにせよ、すべての行いは愛(カリタス、アガペ)によって、あるいは愛に動機付けられて行われるとき、たとえ未熟でも、その行いは真に価値あるものとなり、「神のみ旨に叶う」捧げものとなる。だから、神を愛し隣人を愛することが第一と第二の掟であると言われたキリストのみ言葉が腑に落ちる。