ザビエル上陸記念碑の建設秘話
カテゴリー 折々の想い 公開 [2008/04/25/ 00:00]
まず、記念碑の製作者は当時の東京芸大ルイ・フランセン神父である。神父は長崎時代に知り合ったわたしの友人で、淳心会に所属するベルギー人宣教師であった。1975年のある日、わたしは東京世田谷の松原教会に神父のアトリエを訪ね、ザビエル上陸記念碑について話し、協力を求めた。彼は二つ返事で承諾し、すぐに記念碑の構図のスケッチを始め、潮風をかぶる場所だから材質は陶製レリーフにしたいとも語った。彼はJR山手線田町駅に西郷隆盛と勝海舟会見の図を陶製レリーフで仕上げたばかりであった。わたしは彼の意見にすぐに賛成した。出来上がった記念碑の構図はあのスケッチそのままで、鹿児島の土地を表す土色の信楽焼である。このHP冒頭の写真がそれである。
神父は製作に当たってコンセプトを「異文化の出会い」に求め、ヤジローに案内されて上陸するザビエルとこれを迎える薩摩の人々との出会いを描いている。ザビエルと同じ宣教師である神父は、自らをザビエルに重ね合わせながら、深い精神的な出会いを構想したに違いない。「その交流の継続である記念碑製作の機会を与えてくださった方々に深く感謝したい。今わたしの心は喜びでいっぱいである」と心境を語っている。
上陸記念碑の横には、白いコンクリートの柱に宙づりにされた「翔んでるザビエル」のブロンズ像がある。製作は当時同じ芸大の吉野毅氏で、このザビエル像は99年の「ザビエル渡来450年祭」のポスターを飾った(写真)。彼はその年の夏、たまたま訪れた鹿児島の町でこのポスターを見つけ、その後記念祭にも参加した。そして「彫刻には生かされている彫刻とそうでない彫刻があります。祇園の洲のザビエル像はまさに前者で、幸せな彫刻であることを実感しました。そして製作者である私も彫刻家であってよかったと思います」と話した。
ザビエル上陸記念碑の立つ場所については前回述べたが、山之口市長にお会いして市有地の提供をお受けした際、市長は言った。「今回の記念碑建立は重要な歴史的出来事を記念し顕彰する文化事業ですが、市が一宗教法人に便宜を供与するものと誤解して反対する市議会議員が出てくる恐れがあります」と。そこでわたしは、市との交渉の窓口として「ザビエル上陸記念碑建設委員会」を立ち上げ、松村仲之助氏に委員長をお願いした。松村氏は熱心なカトリック信者で地元では知られた弁護士、当時、県選挙管理委員長の任にあったが、快く承諾し、誠実に委員長の使命を果たしてくださった。その後も市民団体「ザビエル顕彰会」の会長として活躍されたが、惜しくも450年祭の直前に亡くなられた。
記念碑の左隅に小さな自然石の石文(いしぶみ)があり、キリストの言葉、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったならば、なんの益になろうか」(マタイ16、26)という聖句が刻まれている。松村委員長はこの聖句が大好きで、特にラゲ訳にして欲しいと言われたが、残念ながら、文語体になじまぬ若者たちを考慮して口語訳にさせてもらった。ちなみにラゲ訳は「人全世界を儲くとも、その魂を失わば何の益かあらん」である。
お察しの通り、この石文がザビエル上陸記念碑の横に立てられたのにはわけがある。貴族の身分ゆえに約束された華麗な高位聖職者を夢見る野心家ザビエルは、1533年、哲学教授としてパリで活躍中、畏友イグナチオの感化を受け、27歳で「大回心」を遂げるが、イグナチオはこの聖句を繰り返しザビエルに言い続けたという(尾原悟著『ザビエル』清水書院)。わたしも子供のころからそう聞かされてきた。しかし、『聖フランシスコ・ザビエル全生涯』(平凡社)の著者、河野純徳神父は、「しかし、シュールハンマー(筆者注・ザビエル研究の第一人者)はこの聖句に少しもふれていない。若い野心家を回心させた経過全体を要約して、伝記作家が引用した聖句であろうと思われる」と書いている。
その真偽はともかく、アジアの宣教師としてインドにあったザビエルは、教会への協力をおろそかにして財貨の獲得に熱心なポルトガル国王ジョアン3世に苦言を呈し、この聖句を書き送っている(ポルトガルのシモン・ロドリゲスに宛てた『書簡第63』)。もしザビエルが今日あれば、経済大国の夢を捨てきれない日本人に対して、この聖句を繰り返し投げかけるのではなかろうか。その意味でも、ザビエル上陸記念碑には欠かせない聖句だと思う。