司祭も司教も目的はミサ

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司祭も司教も目的はミサ

カテゴリー 折々の想い 公開 [2008/05/10/ 00:00]

高齢者の集いのミサで

高齢者の集いのミサで

叙階の秘跡によって立てられた司教・司祭の使命について、誤解されることも多いが、その究極の使命は「ミサを捧げること」と言ったら信じてもらえるだろうか。

「司祭の役務は聖体祭儀(感謝の祭儀またはミサ)を目指し、聖体祭儀において完成する」。第2バチカン公会議は『司祭の役務と生活に関する教令』の中でこう宣言する(第2項)。叙階の秘跡による祭司職(司教や司祭)の最終の目的はミサを捧げることにあるというわけである。だから、ミサを一回捧げるだけでも司祭になった意味があるといわれてきた。それほどミサは救いの普遍的秘跡である教会に不可欠であると同時に、そこに祭司職の存在理由がある。

公会議は教える。「聖体のいけにえ(ミサ)は、キリスト教生活全体の泉であり頂点である」(教会憲章11)。ヨハネ・パウロ2世は次のように教える。「イエス・キリストは、聖体を与えることによって、教会が過越の神秘を永遠に現存させるよう命じました。こうしてキリストは、時代は変わっても、聖体が聖なる過越の3日間におけるものと『時を越えて同一である』という神秘を実現させたのです。・・・過越の出来事と、この出来事を、時代を超えて現存させる聖体は、歴史全体があがないの恵みを受けることができるようにさせるという、実に途方もない『力』があるのです」(『教会にいのちを与える聖体』5)。つまり、人類のあがないとなったキリストの死と復活の神秘は、ミサにおいて世の終わりまで続けられてその効力を発揮するというわけである。

それゆえキリストは聖体祭儀を制定した最後の晩餐において使徒たちを司祭に任命して(祭司職を制定)、「これをわたしの記念として行いなさい」(ルカ22,19)と命じられたのである。聖体祭儀なくして教会はなく、司祭なくして聖体祭儀はないのである。こうして、教区の司牧にあたる「教区司教」の配慮の中で司祭の養成は最も重要な使命となり、司祭の養成を使命とする神学校は「教会の心臓」とまで言われるほど重要であるから、神学校の健全な運営を図ることも教区司教の重要な任務となる。

わが国の教会は今、司祭召命の減少に悩んでいる。わが鹿児島教区もその例外ではない。散々悩んだ挙句、ベトナムの教会に司祭召命が豊かであることを聞きつけたわたしは、引退も間近かな3年前、4人のベトナム人神学生を招請した。現在鹿児島教区には4人のベトナム人教区司祭を恵まれて、2人はすでに司牧の現場にあり、もう2人は福岡大神学院で日本語の習得に励んでいる。特別な事態が起きないかぎり、鹿児島教区は今、必要な司祭数を満たしている。神に感謝である。

しかし、邦人司祭の育成運動はこれからも熱心に進めなければならない。そして、そのための重要な条件は、聖体祭儀の重要性を信者たち、特に子育て中の若い信者夫婦の意識にかかっている。またそのために、教会共同体全体がいかにミサを、特に主日のミサを重視し、これを盛り上げるかが重要になる。主日ごとの元気の出るミサが盛り上がれば盛り上がるほど、司祭召命の芽は青少年の間に出てくるのではないだろうか。

このことについて、ヨハネ・パウロ2世は強調している。「聖体は司祭の生活と役務の中心ですが、そのことから、司祭召命促進のための司牧活動においても聖体が中心であるといえます。聖体のうちにおいてこそ、召命のための祈りは、永遠の大祭司であるキリストの祈りと一つに結ばれます。また、司祭が熱心に聖体の役務を果たし、信者も意識的、積極的かつ効果的なしかたで聖体にあずかるなら、それは青年たちにとって、神の呼びかけに寛大にこたえるための力強い模範と刺激になります。司祭が示す牧者としての燃えるような愛の模範を用いて、主が青年の心に司祭召命の種をまき、実りをもたらすことも多いのです」(『教会に命をもたらす聖体』31)。

ついでにもう一言。福音宣教が目指すものは聖体祭儀に人を集めることである。「事実、福音の使徒的告知によって、神の民が招かれ、集められるのであって、それはこの民に属するすべての人が、聖霊によって聖化されたとき、みずからを『神のよみせられる聖なる生けるいけにえ』(ロマ12,1)として、ささげるものとなるためである」(『司祭の役務と生活に関する教令』2)。こうして、司祭の最初の使命は福音を告知して人々に洗礼を授け、聖霊によって聖化されたものとして信者をミサに集めることである。この福音宣教のためには信者共同体全体が分に応じて参加しなければならない。何よりも若い夫婦たちがたくさん子供を産んで信者を増やし、ミサに集めなければならない。結婚の重要な目的の一つは、神の民を増やして教会を盛んにすることだからである。