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ラジオから流れるロザリオの祈り

by P.Itonaga posted at 2008-05-25 00:00 last modified 2008-05-24 21:01
ロザリオ

読書グループの女性たちは今、ヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ』を読んでいるが、そろそろ後半に差し掛かってロザリオの祈りのすばらしさがいよいよ身に沁みて理解される段階に入ったようである。「ロザリオはすばらしい祈りです。その単純さと深さのゆえに」(使徒的書簡2)と教皇は言われる。単純さとは、天使祝詞(マリアへの祈り)を繰り返しながら主キリストの生涯の出来事を思い出すだけの、誰にでも祈れるからであり、深さとは、主イエスとその母マリアの生涯から20の出来事(神秘)を思い出しながら、神のうちに秘められた人類救済の偉大な神秘を、聖母とともに観想し、その恵みにあずかるからである。

書簡の中で教皇は、「キリストの神秘」は「人間の神秘」であることを指摘して言われる。「キリストをその生涯のさまざまな段階において観想するならば、必ずキリストの中に人間についての真理を見出すはずです。これは第2バチカン公会議で表明された重大な事柄です」(n.25)。事実、公会議は述べている。「人間の神秘は肉となられたみ言葉の神秘においてでなければ本当に明らかにはならない」(現代世界憲章22)。人となられた神の子キリストは、わたしたち人間にとって「道であり、真理であり、いのちだからである」(ヨハネ14,6)。つまり、わたしたちは道であるキリストに従うことによって永遠の真理、永遠のいのちに達するのである。

教皇はまた、書簡の中でロザリオの祈りの危機について語る。「現代の歴史的・神学的情勢の中で、ロザリオは誤って過小評価され、若い世代にほとんど教えられないという危機に晒されている」と言われ、その理由として特に公会議がキリスト教的生活の源泉かつ頂点として典礼を強調したことへの誤解を指摘して言われる。「ロザリオの祈りは典礼と対立するものではなく、典礼を支えるものです。なぜならロザリオは、典礼への立派な導入であり、またその反復だからです(以上、n.4)。カトリック教会のカテキズムも、ロザリオの祈りなどの信心業が「典礼生活の延長である」(n.1675)と述べている。特にミサを中心とする典礼がキリストの神秘に記念であり、同時のその恵みにあずかる人間の神秘の記念であるするならば、その神秘を観想するロザリオが典礼の準備であり、延長であることは明らかである。

わたしは子供のころからロザリオの祈りに親しんできた。哲学科生時代には神学生の間にロザリオの鎖を編むことが流行し、わたしも暇を惜しんではロザリオの鎖を編んで人にあげたりもした。このほか、様々な体験や思い出の中に、カナダ留学時代の体験を忘れることはできない。1950年代前半の古きよき時代、モントリオール大司教レジェー枢機卿(1933年に来日して福岡に神学校を開いたスルピス会員)は、毎日夕刻、ラジオ・カナダを通してロザリオの祈りを放送していた。枢機卿は各連の初めに神秘の観想のため短い勧めを述べた後、自ら「Je Vous Salue Marie・・・」(Ave Maria)と先唱し、多くの信者たちがラジオにスイッチを入れてこれに唱和していた。神学院の炊事を担当していたシスターたちも、神学生たちの夕食を準備しながら枢機卿と心を合わせて祈っていた。モントリオール大神学院には郊外のラクジェモン湖のほとりに神学生の夏の家があり、わたしもひと夏お世話になったが、夕暮れ時、湖にボートを浮かべながら、屋外のスピーカーから流れてくる枢機卿のロザリオの祈りに唱和したことを、今懐かしく思い起こしている。それはまさに敬虔にして穏やかなひと時であった。

単純で深い祈りであるロザリオはいつでもどこででも祈ることができる。ひとりででも、家族や仲間たちとでも、祈ることができる。そこで最後に、教皇の勧告を想起しておきたい。

「わたしはとくに、愛する兄弟である司教、司祭、助祭の皆さんに、また、さまざまな司牧的職務にある職員の皆さんに申し上げます。ご自身がロザリオのすばらしさについて経験されたことに基づいて、確信をもってロザリオを奨励してください。・・・わたしは、あらゆる境遇にあるすべての兄弟・姉妹の皆さん、キリスト者の家族、病気の人やお年寄り、そして若者たちに申し上げます。信頼をもって、もう一度ロザリオを手に取ってください。聖書の光のもとで、典礼との調和のうちに、そして皆さんの日々の生活の状況の中で、ロザリオを再発見してください」(使徒的書簡n.43)。


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