薩摩の殉教者とロザリオの聖母像
カテゴリー 折々の想い 公開 [2008/06/25/ 00:00]
聖母像はサント・ドミンゴ教会に隣接するドミニコ会修道院二階の奥まった一室に安置されていた。それは、高さおよそ70センチほどの大理石の美しい御像で、銀糸をあしらった衣をまとい、左腕に御子を抱いていた。木机の上に安置されていたこの御像は、少し古びて見えたが、しかし、その敬虔で優しい風貌は心に沁みた。この聖母像を模した絵が川内教会に保存されている。
今年11月に長崎で列福される薩摩の殉教者・レオ七右衛門ゆかりの「ロザリオの聖母」像の由来は次の通りである。(以下、結城了悟著『鹿児島のキリシタン』、『薩摩の殉教者―レオ税所七右衛門』による)。
1602年7月3日、島津藩主家久に招かれたドミニコ会宣教師たちはマニラから薩摩の甑島に渡来した。「日暮れに到着したが、それはおそらく下甑の長浜であったろう。臨時の宿所に落ち着いて、そこの床の間にマニラ総督ルイス・ペレス・ダス・マリーニャスから贈られたロザリオの聖母のご像を安置した」(『鹿児島のキリシタン』8)。わたしがマニラで見たあの聖母像である。
甑島におけるドミニコ会宣教師たちの宣教はあまり目覚しいものではなかった。でも、1604年の終りになって次第に実を結び始め、およそ80人の洗礼があった。そして翌1605年8月15日に教会堂が完成したが、数日後、台風のために完全に破壊されてしまった。そのためか、島津家久はドミニコ会宣教師たちが川内川の入り口の京泊に移転することを許可した。こうして丘の上に立てられた新しい教会において、1608年7月22日、「薩摩の殉教者・レオ税所七右衛門敦朝」はロザリオの聖母像の前で洗礼を受けた。彼は川内・平佐の城主、北郷(ほんごう)加賀守の家臣で38歳、すでにキリシタン信仰を禁じていた主君の意志を知りながら、殉教覚悟の入信であった。
レオ七右衛門の殉教は同年11月17日である。殿の命令により予告された殉教の日の前夜、七右衛門は友人の武士パウロ吉右衛門といっしょに、洗礼のきっかけとなった貿易商ジョアン小兵衛に別れを告げるためにその家を訪ねたが、そこで彼は偶然にも彼に洗礼を授けたホセ・デ・サン・ハシント神父に出会う。そして、みんなでロザリオの祈りを唱え、別れの杯を交わした。
レオ七右衛門の処刑は自宅近くの十字路で行われた。当時の日本の司教ドン・ルイス・セルケイラの教皇パウロ5世への報告書は殉教の様子を次のように述べる。「親戚や立ち会っているその他の人々に別れを告げた後、殉教のために指定された場所へ赴いた。家を出た時、武士のしるしである刀と脇差を置いて、キリシタンの武器、ロザリオ手に取り、懐にはご受難のご絵を入れた。このようにして十字路まで行き、地面に正座した。そして執行人に向かってしばらく祈ることの許しを乞い、キリシタンたちは死の前にそのような準備をすると説明した。30分ほどロザリオを繰り祈った時、一人の執行人が斬ろうとして刀の鞘を払ったが、聖なる殉教者は手で合図をして、まだその時ではないと落ち着いて言い、ゆっくり祈ることを許すように重ねて願い、更に30分程祈りを続けた。懐からご受難のご絵を取り出して拝み、また懐中に入れた。右の手首にはロザリオを巻き、祈祷書に従ってある祈りを唱えた。その後で終りの合図をして神に手を上げ、頭を垂れて斬られるために首を差し出した。こうして11月17日、太陽が昇ると間もなく首が切り落とされ、神のご慈悲の光の至福に入った」(『薩摩の殉教者―レオ税所七右衛門』)。
洗礼から殉教まで4ヶ月足らずであったが、薩摩の殉教者のキリスト教的生活はロザリオの聖母に見守られ、ロザリオの祈りに支えられた聖なる生涯であった。そしてロザリオの聖母像は、後日、殉教者の遺体とともに、長崎を経てマニラに移送された。