レオ七右衛門、列福への歩み
カテゴリー 折々の想い 公開 [2008/07/10/ 00:00]
わたしがレオ七右衛門殉教者の列福申請を真剣に考え始めたのは、1979年7月28日のことであった。この日、薩摩川内市下甑町長浜で「宣教師上陸記念碑」の除幕式があった。この記念碑は、薩摩藩主が招いたスペイン人ドミニコ会宣教師たちの来日を記念するもので、この式典には、ローマから列聖省調査官のジュゼッペ・ベンキ神父(ドミニコ会員)が参加していた。その折、わたしはベンキ神父から川内の殉教者レオ七右衛門の列福申請を勧められたのである。彼は言った。殉教者の列福・列聖手続きは簡単になった。殉教の次第が3人の歴史家によって明らかに証明されれば足りるというのである。
このとき、列福申請に向けてわたしの腹は決まった。川内平左の殿、北郷加賀守作左衛門の家臣、税所七右衛門敦朝の殉教は3人の殉教者と1人の司教の報告によって証明されたもので、その研究はさまざまに進んでいたからである。わたしは川内教会の意向を確かめた上で、列福申請への準備を始めることとした。
1981年5月21日、日本カトリック司教協議会総会の席上、里脇浅次郎枢機卿から提案があった。議事録は次のように記す。「ローマのロッシ枢機卿のすすめの書簡があり、それに基づいて説明があった。先日のマニラの列福式では、ドミニコ会のイニシャティブでドミニコ会の家族のものが列福された。そのため奇異な点、均衡のとれない面もあった。現在、列福可能と思われる者は二十数名、他にもいるであろう。費用の問題もあるが、さほどでもないと思われる。司教団の申請があればprocessus(調査)も容易となる」。討議の末、司教団は「申請をすること」を可決した。こうして、諸般の準備が開始された。
1982年12月1日、臨時司教総会において日本司教団は、まだ列福されていない14件にわたる個人または集団殉教者の列福を一括して教皇に申請することを決議した(鹿児島教区報)。この中に、薩摩のレオ七右衛門も含まれており、ためらうことなしにわたしはこれに同意した。その後の調査で、まだ列福されていない代表的な日本人殉教者188人(17件)を列福申請することが固まった。
1990年3月27日、殉教者列福調査委員会の委員長、白柳誠一枢機卿は188殉教者の殉教地の司教たちの委任状を求めた。列福申請に当たっては殉教地の司教が個別に列福調査を行うのが筋であるが、今回は9教区にまたがる188殉教者の列福申請を共同で行うので、列福調査委員長への委任状が必要になったのである。わたしは同年3月29日、レオ七右衛門の列福調査を委任する旨の委任状に署名してこれを東京大司教に送った。
一方、鹿児島教区では、地もとの殉教者レオ七右衛門の列福を願って独自に顕彰運動を始めることとし、1985年11月17日、第1回川内殉教祭を開催した。また、「レオ七右衛門の列福を求める祈り」が認可され、教区を挙げて祈り始めた。祈りの文面は次の通り。
「父なる神よ、救いのみ業にあずからせるため、あなたがお招きになったレオ七右衛門は、信仰の光に照らされて恵みの時を知り、殉教者としていさぎよく処刑されることを望み、あなたの招きに答えました。殉教者ゆかりの地で信仰に召されたわたしたちが、かれにならって恵みの時を知り、喜びをもってあなたの国を証していくことができるようお助けください。レオ七右衛門を福者の列に加えて世界に示し、その取次ぎによって多くの人々に救いの恵みが与えられますように。
わたしたちの主イエズス・キリストによって。アーメン。
殉教者の元后聖マリア、わたしたちのためにお祈りください。」
「川内殉教祭」とこの祈りは、以来、ずっと続けられてきたが、来る11月24日(月・休日)正午から長崎ビッグNスタジアムで行われる「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式と同時に感謝の祈りに変わり、殉教者たちの取次ぎによって、わたしたちも「信仰と愛の証びと」になる懇願の祈りに変わるであろう・