終戦63年の夏に思う
カテゴリー 折々の想い 公開 [2008/08/12/ 00:00]
先日、今話題の原爆映画「ヒロシマナガサキ」をテレビで観た。わたしも長崎被爆者の一人であるが、この映画を観て原爆の惨事をあらためて想起すると同時に、あれから63年を経た今日の世界が、様々な難題を抱えつつも、世界平和に向かって大きく前進していることを実感している。その象徴的な出来事を次の三点に絞って見てみよう。
1)北海道洞爺湖サミット
もともとサミットは先進国共通の都合を守ることがその本来の目的であったと思うが、今回の北海道洞爺湖サミットはG8(八ヶ国グループ)のほかに、中国、インド、ブラジルなどの新興国やアフリカ13カ国の代表などがオブザーバーとして参加し、またNGOやNPOなどの声も大きくなって様相を一変し、各国の利害が鋭く対立することにもなったが、同時に、世界が多様性の中にあっても一つであるという良識の声も強く響くものとなった。特に地球温暖化問題の解決には国連の枠組みの中で協力して解決を図らなければならないことが強く意識された。グローバル化の時代となった今日、国益という名の「国家エゴ」の克服なくしては世界平和も人類全体の共存共栄もありえないという、まさにグローバルな対話や協力の態勢が見られたのではないか。大した成果は見られなかったという批判もあるが、少なくとも世界平和へのあるべき道筋が垣間見えただけでも、G8サミットは成功だったという見方もできないわけでない。
2)北京オリンピック
共産主義国で開かれる北京オリンピックは注目に値する。1991年にソ連が崩壊して東西冷戦は終結したが、アジアには共産主義政治体制が生き残っており、特に中国では経済的な改革開放は進められてはいるが、無神共産主義に基づく基本的な人権否定と全体主義的抑圧体制は依然として健在である。その中で開かれるオリンピックという世界的イベントは、北京政府が一切の政治的なスローガンや横断幕を禁じたとしても、かえってそれが北京政府の政治的演出となって、否応なしに政治的な改革開放が試されることになるだろう。スポーツの祭典とは言いながら、自国の威信をかけるという傾向を完全に排除できないとしても、やはりスポーツ精神の高揚や世界からの観客動員は中国国民に自由への強いメッセージとなって受け止められるに違いないからである。オリンピックが世界平和への強いメッセージを発信する国際的イベントになるよう祈りたい。
3)カトリック教会の「パウロ年」
去る6月28日に始まった異邦人の使徒聖パウロの生誕二千年を記念する「パウロ年」は、世界平和への強いアピールになるものと期待したい。聖パウロの偉業は生まれたばかりのキリスト教を異邦人の国へ、そして世界へと広げる画期的な出来事であったことを考えれば、その使命を引き継ぐカトリック教会の使命は、人類を分裂と抗争に巻き込んだ罪(原罪と自罪)を取り除くための平和の福音を人類全体に宣布することにあるからである。キリストの福音は平和の福音であり、平和の魂のようなものである。我々はここに、教会の使命がまさに全人類に対して責任を負う「カトリック的」、「普遍的」なものであることを想起しなければならない。第2バチカン公会議は言明している。
「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具であるから、これまでの公会議の教えを守りつつ、自分の本性と普遍的使命とを、その信者と全世界とに、より明らかに示そうとする。現代の状況は教会のこの義務をいっそう緊急なものとしている。それは社会・技術・文化の種々の絆によって今日、より強く結ばれているすべての人々が、キリストにおける完全な一致をも実現すべきだからである(『教会憲章』n.1)。
「現代人の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に、貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみである。真に人間的な事柄で、キリストの弟子たちの心に反響を呼び起こさないものは一つもない。それは、彼らの共同体が人間によって構成されているからである。彼らはキリストにおいて集まり、父の国への旅において聖霊に導かれ、すべての人に伝えなければならない救いのメッセージを受けている。したがって、この共同体そのものが人類とその歴史とに、実際に深く結ばれていることを自覚している(『現代世界憲章』n.1)。
教会は真の世界平和の構築と、終末における「新しい天地」の実現のために、極めて重大な使命を担っているのである。