日本人へのケリグマにおける神認識問題
カテゴリー 折々の想い 公開 [2008/09/25/ 00:00]
昨年末の教勢調査によると、わが国のカトリック人口は447,720人で、わが国人口の0,352%に過ぎない。ほぼ同数の外国籍カトリック者がおり、更にカトリック以外のキリスト者を合わせても150万人を超えないであろう。ザビエル渡来から450年、宣教再開から150年近くにもなろうというのにこの信者数では、日本の宣教はまだ始まったばかりと言わざるを得ない。それは一体なぜか。もう一度この辺を考えなければならないのではないか。
ザビエルは日本宣教開始に当たって、天地創造の神の存在、魂の不滅、すなわち永遠の生命、そして救いに至るための唯一の道はキリストであること、の三点を強調した。何よりも天地創造の神の存在を認めることはキリスト教宣教の根本問題であることをよく認識していたと思う。ザビエルの後継者たち、中でも巡察師ヴァリニャーノの『日本のカテキズモ』(1586年、リスボン、ラテン語)では神の存在の証明に多くのページ数を当てているほどである。それほど、わが国の宗教的伝統の中では超越的人格神の思想が欠如していたのだ。
来月来日300周年を記念するシドッチ神父を尋問した碩学・新井白石ですら、シドッチが説明するキリスト教を理解しえず、宗教は日本伝来の神道や仏教のほうが優れていると断言した。朱子学者であり、実学を重んじた白石は、シドッチを通して知り得たヨーロッパの科学を理解しえても、キリストの教の言う「超越神」を理解する前提を所有していなかったとしか考えられない。このような日本人の傾向は、近代合理主義や近代哲学による主観主義に毒された日本の知識人はいっそう強くもっており、何かにつけて「一神教批判」をし、宗教に関しては伝統の神仏思想に満足している。その上、神仏を生活の中で生きている人はわずか30%に過ぎず、若者に至っては無宗教的な現世主義を生きていると考えてよいのではないか。
したがって、天地創造の超越的人格神についての認識や体験の促進こそ、わが国におけるケリグマ、すなわち未信者への福音の告知において極めて重視すべき問題点ではないかと愚考する。そこで、戦後、長い間日本の教会が使用した『カトリック要理』から、神の存在証明の部分を次に転記して参考に供したい。
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神の存在することはどのようにして知ることができますか。
神の存在することは、推理によって知り得ますが、神の啓示によっても知ることができます。
推理によって知ることができるとは、次のような推論によることを言います。
1)この世のものはみな有限であり、変化するということから、それらがもっとも根源的なものではないこと、従って、ほかのものに依存しているということがわかります。つまり、それを超えた根本原因として無限、不変、必然なもの、すなわち全く完全なものの存在することがわかります。
2)全自然界にはすばらしい秩序が見られ、またそのうちに偉大な目的性が、特に、生物界に現われています。秩序と目的とは、知恵から生まれるものですから、その原因として、知恵を持つ創造主の存在することがわかります。
3)すべての人々に同じように良心の声があり、それを無視することはできません。このような良心の声があるという事実は、人間が、人間以上の法に服しているものであることを示しています。したがって、それを与えた最高立法者の存在することがわかります。
4)また人間は、すべて心のうちに自分のはかなさを体験して、永遠、無限なものへのあこがれを感じています。このようなあこがれが、すべての人にあるという事実は、人の心が神においてのみいこい得ることができるということを示しています。したがって、この心のあこがれからも、神の存在することがわかります。
啓示によって知ることができるとは、神が、人類に直接自らをお示しになったことを言います。すなわち神はキリスト以前にモーセと預言者をとおして語られ、またイエズス・キリストによって、ご自身のことについてと、人間の救いについての啓示を完成され、自らを人々にお示しになりました。
「神は,昔、預言者たちによって、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、お御子によってわたしたちに語られた」(ヘブライ人への書簡1,1-2)。