福音宣教とマスメディア
カテゴリー 折々の想い 公開 [2008/10/24/ 00:00]
わたしがはじめて教会メディアの送り手として関わったのは1955年(昭和30年)のことだった。その年の春、「カトリック教報」(長崎教区報)の編集長・里脇浅次郎師が鹿児島司教に転じるのでその後を継げとの命令を受けたからである。こうしてわたしは初代浦川和三郎(後の仙台司教)、第二代里脇浅次郎(後の長崎大司教・枢機卿)に次いで第三代のカトリック教報の編集長になった次第。それ以来、カトリック・メディアとの長い付き合いが始まった。
10年後の1965年に第2バチカン公会議が終了するが、公会議はいち早くカトリック広報機関の重要性を強調し、各国、各教区に広報室ないし広報委員会を設置するよう勧告した。そのため、わたしは長崎教区広報担当として早速信徒を中心メンバーとする長崎教区広報委員会を立ち上げ、カトリック教報の編集会議を兼ねて毎月会合を開いて教区報の刷新と配布の徹底を図ると同時に、カトリック新聞の普及にも力を入れた。
1970年、鹿児島司教に転じてからは、日本司教団の一員として全国の宣教・司牧にも携わることとなるが、当時、司教協議会会長であった田口枢機卿はわたしの長崎教区での活動を知ってわたしを広報委員会に配置し、三年後には委員長に推された。こうしてわたしは内外のカトリック広報活動全般に関わることになった。
まず国内では、各教区の広報担当司祭たちとの連携を緊密にすると同時に、彼らと協力しながら新聞や書籍などの出版事業、ラヂオやテレビなどの放送事業、そして映画・視聴覚などのグループメディアなど、わが国のあらゆるカトリック・メディアの発展に取り組んだ。国際的な分野では、特にアジア司教協議会連盟(FABC)の広報委員会に参加し、多くの国際会議に出席して、教皇庁をはじめ、世界のカトリック・メディアの実情にふれた。
こうした体験の中で、わたしには果たし得なかった二つの夢がある。今やインターネットの時代ではあるが、それでも印刷物の重要性は変わらないとの信念のもとに、一つはカトリック新聞の刷新である。現在のカトリック新聞は国内の教会はもちろん、ローマ聖座をはじめ世界の教会ニュースを知るおよそ唯一の手段であり、極めて貴重ではあるが、しかし、国民全体に対する宣教紙としてはほとんど無意味である。かつてあるカトリック外科医院の先生が「宣教の一助にカトリック新聞を待合室に置きたいのだが、今の新聞ではそれができない」と嘆いていたが、事情は現在も変わっていない。
カトリック新聞は日本司教団の機関紙である。しかし、それは同時に日本の教会の公式の機関紙であって、従って、教会が「救いの普遍的秘跡」であり、「福音宣教」をその基本的使命とする以上、カトリック新聞の使命はあくまで「福音宣教とその証し」であるはずである。そして福音宣教というとき、その主たる対象は誰よりもまず非キリスト者であり、「未信者への宣教(Missio ad Gentes)」であるから、カトリック新聞はあくまですべての日本人、1億2千万人を対象として発行されなければならない。「救いの良い知らせを受けるのは、人々の権利です」(パウロ6世勧告『福音宣教』n.80)。
一般人向けの宣教的な全国紙となれば、カトリック新聞はまずキリスト教の基本を日本人にわかりやすく、又繰り返し説かなければならない。特に、信仰の前提となる神の存在証明や来世の命の存在など初歩的な真理について、丁寧に繰り返し教える必要がある。近代合理主義や主観主義、あるいは狂奔する拝金主義や空虚な精神主義の影響下、創造主なる神に対して閉じられた日本人の心を開かせるためである。また、個人や家庭及び社会全般を神とその国、すなわちキリストの再臨によって完成する「新しい天と地」(黙示録21,1)に向けて秩序づけ、刷新するため、教会の社会的教えを時事問題と絡めて論じなければならない。そうした宣教(ケリグマ)的な内容が豊かになれば、それは未信者にとってばかりでなく、カトリック信者自身にとっても有益であり、何よりも信徒たちの宣教活動を励ます指針となる。なお、新聞に掲載される教会ニュースは、教会外に向けて発信されるとき、「福音の証」としての価値をいっそう高めるであろう。
もう一つの夢は「カトリック総合雑誌」の発刊である。わが国にはそれぞれの分野において司祭・信徒・修道者の専門家は数多く育っており、内外で活躍している。また、信者はもちろん、多くの日本人がカトリック教会の専門的な言論に期待していると思われる。わが国におけるカトリック・シンパは数百万人はいるといわれる一方、カトリックの言説が政治的、倫理的に偏らず、公平であると信じる善意の人々も決して少なくないのである。だから、人生問題や時事問題を突っ込んで論ずるカトリック総合雑誌の出現は停滞気味の日本宣教を活性化する上で一つの課題であると思う。諸修道会が独自の雑誌出版に精出しているのも結構だが、力を合わせて大きな仕事をするのもまた一つの道ではないだろうか。日本の小さな教会には力の結集が必要である。