188日本人殉教者の列福
カテゴリー 折々の想い 公開 [2008/11/25/ 00:00]
福者レオ七右衛門の殉教は1608年11月17日であったから、今からちょうど400年も前のことである。他の福者たちもその前後の殉教者たちであるが、4百年前の殉教者たちの列福は信教の自由を謳歌する現代日本においてどんな意味があるのだろうか。すでに多くの人がその意義を語っており、語りつくされた感じもあるけれど、しかし、殉教はキリスト教信仰の本質に属することであるから、繰り返し語っても語りつくせるものではないと思う。
では、殉教者顕彰の今日的意義は何か。当然のことながら、それは「信仰のためにこの世のすべてをなげうつ」ということではないだろうか。福者レオ七右衛門はいただいたばかりのキリスト信仰を守り通すために、最愛の妻子を残して死に赴いたのであった。それほどに信仰は大切であることを証ししたのである。そして、このような信仰の証が今日ほど重要なときはないのではないかと思われる。なぜなら、今日の世界があまりにも現世中心の世俗主義社会だからである。
今日、世界を覆っているアメリカ発の金融危機はその象徴であろう。19世紀の産業革命に端を発した抑制なき資本主義は、いまや新自由主義、市場原理主義として世界を風靡し、その流れに乗じてマネーゲームに走った少数の金持ちたちの際限なき金銭欲のために、貧しい人々、貧しい国々が死の淵に追いやられている。そして多くの人々や国々は景気、景気と血眼になっている。日々報じられる金融政策に一喜一憂する今日の風潮は、ややもすれば信仰者たちの価値観や生き様にも影響を及ぼしかねない。そんなご時勢に、殉教者たちは警告を発して、心を挙げて神を仰ぎ、永遠の生命のためにはこの世の財産ばかりでなく、いのちさえもなげうつことを求めているのではないか。
こうして冷静にこの世の価値を判断するとき、自ずから人と世界のたどるべき道筋は明らかになるのではないだろうか。まず、世界の金融秩序、経済秩序の再構築に当たっては、世界の財貨は全人類の共有の遺産であり、従って奪い合いでも独り占めでもなく、公平に分かち合うべきであることを確かな前提としなければならない。そのためには、各人の自由な生活や活動を保証する私有財産権を、他者の自由を侵さないために厳しく規制することを基本にしなければならないであろう。また、それは同時に、いまや市場原理主義が破綻し、アメリカ一国主義も破綻したことを自覚することでもあろう。いわゆるアメリカンドリームを追い続ける限り、平和な人類共同体は生まれないのである。
一方、殉教者たちはわたしたちに現世を越えた永遠の世界、新しい至福のいのちへの渇望を取り戻すよう促している。多くの人がこの世のいのちを一日でも伸ばそうと懸命ではあるが、同時に、この世のいのちには終わりがあり、いずれ死を迎えることは確実だと自覚している。ならば、この世に続く後の世のいのちのためにすべてを尽くす覚悟を決めなければなるまい。わたしたちは殉教者の顕彰を通してこのことを世の人々に強く訴えなければならない。福音宣教は差し迫った今日的課題である。
また、教会自体にとっても、188日本人殉教者の列福は信仰の本質に立ち戻って生活を改める契機としなければならないであろう。わたしは何よりも司祭・修道者の召命問題に注目したい。周知の通り、司祭・修道者の召命減少は各教区、各修道会の悩みの種となっており、その改善はわが国教会の緊急の課題である。従って、神とその教会のために一切をなげうって一生を捧げる心意気を若い夫婦とその子供たちに訴える好機ではないか。そのためにも、信者子弟の信仰教育、要理教育における殉教者顕彰の努力はいっそう強化されなければならないのではないか。そのための運動が全国規模で発展することを、この際、特別に祈りたいと思う。