鹿児島教区の恩人、結城了悟神父

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鹿児島教区の恩人、結城了悟神父

カテゴリー 折々の想い 公開 [2008/12/10/ 00:00]

鹿児島のキリシタン

鹿児島のキリシタン

さる11月17日、キリシタン史家で、1962年の開設以来40年余りにわたって日本26聖人記念館(長崎市)の館長を務め、また四半世紀に及ぶ188日本殉教者の列福調査の中心となって働いた結城了悟神父が、念願の列福式を前に亡くなった。86歳だった。神父はわが鹿児島教区にとっても忘れることのできない恩人である。

スペイン出身の結城神父は1946年、イエズス会宣教師として来日した。当時、パチェコ・ディエゴを名乗っていた神父は78年に日本国籍を取るが、1636年に殉教し、今回列福されたディエゴ結城了雪にちなんで日本名をつけた。わたしは鹿児島司教として赴任する前、長崎にいて彼と親しくしていたこともあり、鹿児島に来てあらためて結城神父の協力をお願いすることになった。

長崎県で生まれて育ち、長崎教区に一生を捧げていたわたしは鹿児島の土地柄が良くわからなかったから、鹿児島赴任後、この地を知ることが一つの最初の仕事になった。その土地を知るにはその歴史を知ることが一番であるが、そのための格好の本を見つけた。南日本新聞社が明治百年を記念して編纂した『鹿児島百年』である。上中下三巻のこの本は上が幕末編、中が明治編、そして下が大正昭和編で実によく編まれている。むさぼるように読み、鹿児島の風土についてのにわか仕込みの知識を身につけた。

しかし、『鹿児島百年』にはキリスト教関係の歴史については触れておらず、あったのは明治の初め、配流の浦上キリシタンを扱った明治編第10章「お預けキリシタン」のみであった。聖フランシスコ・ザビエルが日本最初のキリスト教宣教師として鹿児島に上陸したことは無論知っていたが、その後のキリシタンの歴史はほとんど知らなかった。それを知らなければ鹿児島での宣教・司牧はできないと感じたが、まとまった鹿児島キリシタン史がないことにも気がついた。そこで早速長崎のパチェコ神父に連絡を取ってその執筆をお願いした次第。友だちとはよいもので、神父は二つ返事で引き受けてくれた。

こうして、1975年(昭和50年)7月1日、『鹿児島のキリシタン』が地元の春苑堂書店から発行された。著者は「パチェコ・ディエゴ」となっている。日本帰化の前だった。ちなみに本書の目次を紹介しておこう。1-薩摩の玄関―種子島、2-ザビエルの書簡から、3-われらのフランシスコ・ザビエル、4-種子島とザビエル、5-ルイス・デ・アルメイダの第一回訪問、6-山川港とイエズス会、7-九州の戦乱、8-関が原の戦いから薩摩における迫害まで、9-港の冒険、10-種子島の追放者、11-屋久島の日暮れ、12-浦上のキリシタン。種子島の鉄砲伝来から明治の初めまでの薩摩のキリシタン史が簡潔かつ平易に綴られている。結城神父の文章はわかりやすく簡潔で、詩的なところがあって好感が持てる。

その年の8月15日、始めての教区主催「ザビエル祭」のあと、正午からザビエル会館二階で出版記念会が、著者パチェコ神父はもちろん、県知事代理、山之口鹿児島市長はじめ、鹿児島図書館長や郷土史家その他、多くの来賓を迎えて意義深く行われた。「鹿児島県人として、かねてから欲しいと思っていたものがやっと出て喜ばしい。ザビエルが身近なものと感じられるようになった」とこもごも祝辞を述べた。パチェコ神父はこの本が出るまでを思い起こし、「種子島や鹿児島を歩き回って、鹿児島県民の暖かい心にふれることができて嬉しい」と喜びを語った。

『鹿児島のキリシタン』は1987年に改訂出版されたが、当然のことながら著者名パチェコ・ディエゴは結城了悟に変更されている。

結城神父によるもう一つの著書がある。小伝記『薩摩の殉教者・レオ税所七右衛門』である。すでに日本司教団はレオ七右衛門を含む188人の日本殉教者の列福を一括申請していたが、結城神父は1985年、真っ先に鹿児島の殉教者の伝記を日本26聖人記念館から出版してくれたのである。この伝記出版で特筆すべきは、それまで確かでなかったレオ七右衛門の出身地が宮崎県都城市であることを確認したことであるが、彼はそのために都城市まで出かけてレオ七右衛門の系図を発見した郷土史家・児玉三郎氏に会い、帰りには鹿児島に立ち寄って事情を報告すると同時に、小伝記の全原稿をわたしに手渡して序文を依頼したのだった。

わたしはいま、神父への感謝を新たにしながら、その永久の安息を祈っている。