人々を教会に招くクリスマス

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > 人々を教会に招くクリスマス

人々を教会に招くクリスマス

カテゴリー 折々の想い 公開 [2008/12/25/ 00:00]

クリスマスの馬小屋

クリスマスの馬小屋

クリスマス・シーズンを迎えて、わたしは今、長崎・八幡町教会時代を思い出している。若かったとはいえ、クリスマスは重労働の二日間だった。24日の朝から青年たちの協力を得て教会の飾りつけに汗を流し、夕方7時から二時間は「クリスマス・レセプション」、そして11時から真夜中のミサ、ミサ後は明け方まで高校生や青年たちとのお付き合い、25日は早朝のミサと日中のクリスマス・ミサ、そして午後2時からは「クリスマス子どもの集い」と続いた。でも、あの疲れは快い疲れだった。

新設の八幡町教会の初代主任司祭になる前、司教館に勤務していたころ、カトリック青年労働者連盟(J.O.C.)の大浦教会女子組会(J.O.C.F.)の指導司祭として関わっていた。当時、J.O.C.の年中行事として、各組会で「クリスマス・レセプション」が行われていた。これは、会員たちがカトリック信者ではない職場の仲間を教会に招待してクリスマスの喜びを分かち合うもので、クリスマス・イブに、まず聖堂内で「キャンドル・サービス」と称して灯したローソクを手にクリスマス聖歌を歌い、詩の朗読を聞いて、しばし敬虔な祈りの雰囲気を分かち合った後、場所を変えてパーティーに移り、最後に持ち寄ったプレゼントを交換して散会する二時間あまりの催しである。

なかなかしゃれた楽しいレセプションは、クリスマスにおける教会のあり方について大きなヒントを与えるものだった。つまり、戦後、多くの日本人はキリスト教に対して戦前のような嫌悪感を持たず、少なくともクリスマスにはできたら教会に行ってみたいと思っている。しかし、クリスマス(キリストのミサ)の名のとおり、クリスマスの中心はミサであるが、洗礼を受けていない者は「聖体の典礼」に参加する資格がなく、その前の「言葉の典礼」には参加できるので、印象的なキャンドル・サービスの形でこれを行おうという趣向である。この思いは、わたしが主任司祭になったとき、その実現の時を迎えたのだった。

1)大人のためのクリスマス・レセプション

これは、高校生以上の大人の所属信者たちが各自個々に信者ではない友だちを教会に招待して行う集いで、J.O.C.のクリスマス・レセプションに準じて行った。まず二階の聖堂で第一部「ことばの祭儀」。各自灯したローソクを手にクリスマス聖歌を一緒に歌い、キリストご降誕の聖書朗読のあと講話を聴き、黙想して聖歌を歌う。第二部は一階の幼稚園ホールでのパーティーで、信者たちの接待を受けながら、毎年変わるかなり派手な余興を楽しみ、最後に持ち寄ったささやかなクリスマス・プレゼントを交換して散会するのである。もし希望する人があれば、もちろん真夜中のミサにもオブザーバー参加が認められ、実際に参加する人たちがいた。

日ごろから布教のために何かしたいと望んでいた信者たちはこの催しに積極的に協力した。

250人から300人に達したお客さんで聖堂も幼稚園ホールも満杯であったが、荘厳な雰囲気のキャンドル・サービスでは神の御子の誕生の神秘に静かに浸り、レゼプションでは和気藹々のうちにクリスマスの喜びを分かち合い、「また来年も」と言い交わして散会したものだ。わたしは大人の信者たちが、機会さえ与えられれば、喜んで、また積極的に布教に協力する姿に大いに満足した。

2)クリスマス子供の集い

これは信者の小・中学生各自がカトリックではない友だちを教会に招き、クリスマスの喜びを分かち合おうというもので、25日午後行われた。手順は大人のクリスマス・レセプションと同じであるが、信者の小・中学生が接待の一切の仕事を担当することと、余興は信者の子供たちが早くから準備をしてきた「クリスマス聖劇」を演じることであった。大人たちは裏方に徹して、決して会場には姿を見せなかったが、信者の小・中学生たちは主宰する教会側を代表してホスト、ホステスに徹し、司会、お茶組み、サンタクロース役など精力的にこなした。また、催し全体が規律よく進行し、教会らしい、そしてクリスマスらしい和やかで敬虔な雰囲気を大体において保つことができた。わたしはこのクリスマス子供の集いに満足していた。そして、この信者の子供たちが子供心に布教の具体的な体験を将来につなげて欲しいと心から願うのであった。

今年も、多くのカトリック教会でクリスマスのミサが盛大に行われ、少なからぬ市民が見学に訪れることであろう。だが、もう一歩進めて、個々の信者が、自分の友だちを進んで教会に案内し、多くの市民が単なる無名の参観者としてではなく、名指しして招かれた客として、主体的にクリスマスの祝いに参加できる企画があれば、教会を中心とした交わりの輪を一挙に広げる機会になるのではないかと、今も思っている。