『聖母像の到来』を読んで

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > 『聖母像の到来』を読んで

『聖母像の到来』を読んで

カテゴリー 折々の想い 公開 [2009/01/09/ 00:00]

「マリア観音」

「マリア観音」

キリスト教生活に聖画像は欠かせない。教会にも信者家庭にも必ず十字架像や聖母像などの聖画像が飾られている。信仰教育においては視聴覚教材として重要だ。その聖画像について、わたしは最近考える機会を得た。若桑みどり著『聖母像の到来』(青土社)との出会いである。タイトルのとおり、本書はキリシタン時代の、聖母像を始めとする聖画像の日本への持込とその普及についての詳しい研究論文である。

1-宗教改革と聖画像

聖フランシスコ・ザビエルが渡来した16世紀、ヨーロッパでは宗教改革の嵐が吹きまくっていた。1517年、マルティン・ルターがカトリック教会にプロテストしてウィッテンベルクで公開した「95ケ条の命題」の中には、聖画像を偶像崇拝として否定する条項があった。これに対し、カトリック教会はトリエントに公会議を召集して「反宗教改革」に立ち上がり、公会議の終幕、1563年12月3日の第25本会議(Sessio)において、「聖遺物、聖人、聖画像への祈願と崇敬について」教令を決議し、公布した。次はそのさわりの部分で、本書の翻訳である。

「さらに、キリスト、神の母マリア、およびその他の聖人のイマギネス(Imagines)は、特に教会に存在しなければならず保存されなければならない。これらはふさわしい栄誉と崇敬を捧げられるべきである。しかしながらそれは、イマギネスのなかには或る種の神性あるいは権能が宿っているとされるからではなく、あるいはまた異教徒がかつて偶像に希望をかなえてくれることを願ったように信者がそれらのイマギネスに何事かを祈念し、それらを信頼するからでもない。その理由はイマギネスの栄誉はそこに表現されているプロトタイプ(Prototypa)への崇敬であるからである。したがってわれらが口づけし、ひれ伏すイマギネスをとおして、そこにイメージとして現われているキリストおよび聖人を崇敬するのである。すべてこれらのことは、ニケアの第2公会議で、聖画像への反論に抗して公布される勅令に示されていることである」(Denzinger“Enchiridion Symbolorum”986)。

この教令は、以後、カトリック教会における聖画像に関する基本指針となる。

2-キリシタン時代の宣教師と聖画像

ザビエルをはじめ、キリシタン時代の宣教師たちは聖母子像などの聖画像を布教のための重要な品として持参したが、それは次第にトリエント公会議の指針に基づく聖画像となり、宣教師たちを通して世界の布教地にも一気に広がった。特に、1587年初来日した巡察師ヴァニャーノの配慮によって、わが国でそれらの聖画像が大量に生産されるようになった。初めに述べたように、キリスト教生活にとって聖画像は欠かせないから、急速に数を増やすキリシタンたちの需要にこたえるためには、西欧からの輸入に頼っていては間に合わない。そこで、西洋から招聘された教師によって日本人画家が養成され、西欧の聖画像を手本として、正式に日本におけるキリスト教絵画が生産されるようになったのである。本書、『聖母像の到来』には、あまり知られていないこのあたりの事情が詳細に語られ、その昨品についての具体的な解説がなされており、示唆に富む。

3-マリア観音の由来

『聖母像の到来』にはもう一つの注目すべき研究がある。マリア観音についてである。従来、潜伏キリシタンたちは一人の宣教師もなく、厳しいキリシタン探索をかい潜って信仰を守りかつ伝えたのであるが、その重要な支えの一つはマリア観音であった。そしてこのマリア観音は仏教の慈母観音像であって、潜伏キリシタンたちはこの観音像を「マリアに見立てて」崇敬したというのがこれまでのキリシタン史家たちの一致した見解であった。だが、『聖母像の到来』によれば、実はそうではなく、当時の中国で宣教を開始し、地域文化への適応を推し進めたイエズス会宣教師マテオ・リッチが作らせた、東洋人の顔と衣装の「東アジア型聖母像」(140㌻)であったとされ、当時東シナ海を支配した海商鄭芝龍、鄭成功父子によって福建省から長崎に運ばれ、西洋伝来の聖画像が使用できなくなった潜伏キリシタンの霊的需要を満たしたというのである。もしこれが本当だとすると、マリア観音に関する認識を変えなければならない。興味ある研究である。

ちなみに、わたしの生まれ故郷である平戸島に川内(かわち)という港があり、港外に広がる白浜の一角に「児誕石」という史跡がある。これは鄭成功が生まれた場所とされるが、その鄭成功父子によって運ばれたマリア観音が、長きにわたって潜伏キリシタンたちの心を慰めたという話しは実に愉快である。