「聖母月信心」の思い出
カテゴリー 折々の想い 公開 [2009/05/10/ 00:00]
わたしは1941年、すなわち太平洋戦争が勃発した昭和16年の春、平戸・紐差の実家から長崎に出て、南山手町の「長崎公教神学校」に入学すると同時に、大浦の谷向こうにある東山手町の長崎教区立旧制「東陵中学校」に入学した。田舎育ちのわたしには何もかもが新鮮で、楽しい日々だったが、その頃、昭和12年に始まった支那事変(事変とは、戦争ではないとの主張だったらしい)はさらに拡大し、対岸の三菱造船所には御簾で覆われてはいたけれど艤装中の戦艦武蔵の巨大な姿があり、特高警察の目が光るなど不気味な世相が感じられた。
そんな中で、入学して間もない5月には神学校のすぐ隣の国宝・大浦天主堂で聖母月の信心が始まった。それは、かの有名な「信徒発見」(キリシタンの復活とも言う)が行われた聖母像(写真)の前で行われたので、その由来を、若いころ親しくしていただいたキリシタン史家・片岡弥吉先生の『長崎のキリシタン』に従って想起しておこう。
――1865年3月17日、金曜日の昼下がり、男女の農民十余名がフランス寺(筆者注・当時、大浦天主堂はそう呼ばれていた)見物にやって来た。プチジャン神父は、後に歴史的事件として記録されることになったこの日の出来事を、パリ外国宣教会日本管区長として横浜にいたジラール神父にあてた3月18日付手紙で、次のように報告している。
「親愛なる教区長さま。心からお喜びください。私たちはすぐ近くに昔のキリシタンの子孫をたくさん持っているのです。・・・昨日12時半ごろ、男女小児うち混じった12名から15名ほどの一団が天主堂の門前に立っていました。ただの好奇心で来たものとはどうやら態度が違っている様子でした。天主堂の門は閉まっていましたから、私は急いで門を開き、聖所の方に進んでゆきますと、参観人も後から付いてまいりました。・・・私は救い主のみ前にひざまずいて礼拝し、心の底まで彼らを感動させる言葉を私の唇に与えて、私を取り囲んでいるこの人々の中から主を礼拝する者をえさしめたまえと祈りました。ほんの一瞬祈ったと思うころ、年頃は40歳か50歳ほどの婦人が一人私のそばに近づき、胸に手をあてて申しました。
「ここにおります私たちは、みな貴師(あなた)さまと同じ心でございます」
「ほんとうですか。どこのお方です。あなた方は」
「私たちは皆、浦上の者でございます。浦上ではほとんどみな私たちと同じ心をもっております」
こう答えてから、その同じ人が、すぐ私に、「サンタ・マリアのご像はどこ?」尋ねました。
(プチジャン神父はフランス語の手紙の中で、ローマ字で、Santa Maria no go-zo wa doko?と書いている)
サンタ・マリア! このめでたい御名を耳にして、もう私は、少しも疑いません。いま私の前にいる人たちは、日本の昔のキリシタンの子孫に違いない。私はこの慰めと悦びをデウス(神)に感謝しました。そして・・・あなたがフランスから持って来てくださった、あの聖像を安置してある祭壇の前に、彼らを案内しました。彼らは皆、私にならってひざまずきました。祈りを唱えようとするふうでしたが、しかし喜びに堪えきれず、聖母のご像を仰ぎ見るや口を揃え、
「ほんとうにサンタ・マリアさまだよ、ごらんよ、御腕に御子ゼズスさまを抱いておいでだよ」というのでした―-。
この思い出深い信徒発見の聖母像の前で、5月中毎日、夕方に行われた聖母月の信心には、地元の信者たちのほか、20人余りの小神学生も参加して、主任司祭下崎神父の興味深いやさしいお話を聞いて聖母マリアを偲び、ともに祈りともに歌った。細かいことはすでに忘却の彼方であるが、一時間ほどのあのひと時は、潜伏キリシタンの心のよりどころでもあった聖母マリアへの敬慕の情がいやが上にも掻き立てられたことだけは確かである。