教会、神秘的なエバ
カテゴリー 折々の想い 公開 [2009/05/25/ 00:00]
聖アンブロジウスの肖像画全聖書の最初の本、創世記は、女(エバ)の創造について語る。「主なる神はそこで、人(アダム)を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。『ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる』(創世記2,21-24)。
アンリ・ド・リュバクはその著『カトリシズム』の中でミラノの司教聖アンブロジウス(333-397)の解釈を紹介している。アンブロジウスはこの物語の裏に隠された神秘的な意味を追求して言う。この女とは、「異邦の民から集められた教会である」と。そして、この男とは、最後の(第二の)アダム、キリストである、と。眠れるキリスト、すなわち十字架上で息を引き取られたキリストの開かれた脇腹から教会は生まれるが、その教会にはキリストのあばら骨、すなわちキリストの霊的な生かす力が注ぎ込まれた、と。アンブロジウスは聖パウロの言葉、すなわち、「最初の人アダムはいのちのある生き物となったが、最後のアダムはいのちを与える霊となったのです」(1コリ15,45)を引用して言う。「キリストのあばら骨は教会の生命である」と。
アンブロジウスはさらに言う。「このあばら骨は、身体的なものではなく、霊的なものであり、霊そのものは分かたれることなく、欲するままに各人に自らを分け与えるのである(1コリ12,11)。これが生けるすべてのものの母、エバである。従って、生けるものの母とは教会である」と。
第2バチカン公会議(1962-65)は、教会の秘儀について教えている。「位階制度をもって構成された社会とキリストの神秘体は、見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に富む教会は、二つのものとみなされるべきではないのであって、人間的要素と心的要素とからなる複雑な一つの実在を形成しているのである」(教会憲章8)。教会は見える社会組織と見えない霊的な共同体とが一体となった実在だというのである。見える社会組織としての教会には洗礼を通して加入するのであるが、見えない霊的共同体としての教会には、洗礼を通して加入するものと共に、神のみが知る道を通ってキリストの結ばれる無数の人々がいるとわたしたちは確信している。教会は普遍的(カトリック)であって、全人類を受け入れるべき使命を持っていることをわたしたちは信じているのである。
第2バチカン公会議はまた、教会が、神の建築、神の家その他、様々なイメージで呼ばれてきたことを明らかにしているが、注目すべきは、教会を花婿であるキリストの「花嫁」としてイメージされている事実を次のように述べていることである。「教会は、汚れなき子羊(キリスト)の汚れなき花嫁として描かれる(黙示録19,7;21,2;22,17)。キリストはこの花嫁を『愛し、彼女を聖とするために、おのれを彼女のために渡された』(エフェゾ5,26)。キリストは彼女を、解き得ない契りをもって、ご自分に結び合わせられた。そして彼女を絶えず『養いはぐくまれる』(エフェゾ5,29)。また、この花嫁が清められた後ご自分に結ばれ、愛と忠実とをもってご自分に従うものとなることを望まれた(エフェゾ5,24参照)」。
「神秘的なエバ」としてキリストのあばら骨によって造られた教会は、「花嫁」として花婿キリストに結ばれて、「、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」という創世記2,24の言葉は、その霊的な意味を完全に実現し、こうして、人類創造に隠された神の愛の計画は、キリストの救済と教会の神秘を通して成就したのである。
アンブロジウスは言う。「今も尚、教会は構築されており、今も尚、形作られている」と。
その言葉のとおり、今年もさる4月12日の復活祭を期して多くの求道者が洗礼を受け、新しい仲間を迎えて教会はさらに成長した。わたしたちの目には見えなくても、多くの良心的な人々が、神のみぞ知る仕方によってキリストに結ばれ、その神秘体はさらにその地平線を広げているに違いない。そしてこの神秘的なエバ、キリストの花嫁はやがて天上に挙げられて、永遠の至福のいのちに集うであろう。わたしたちの希望は裏切られることはないのである。