悪霊と戦う司祭たち
カテゴリー 折々の想い 公開 [2009/06/10/ 00:00]
教皇ベネディクト16世はさる3月16日、教皇庁聖職者省総会参加者への謁見において、「アルスの主任司祭」聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネー(1786-1859)の没後150年を記念して、2009年6月19日(イエズスの聖心の祝日)から2010年6月19日まで、特別聖年として「司祭年」を開催すると発表した。テーマは「キリストと司祭職への忠実」である。この特別聖年の間に、教皇は聖ヴィアンネーを「全世界の司祭の守護者」と宣言し、「聴罪司祭と霊的指導司祭のための指針」を発表する予定である。
「アルスの主任司祭」(Curé d’Ars)と呼ばれる聖ヴィアンネー神父は、1786年フランスのリヨン郊外ダルディリに生まれ、困難な勉学の末、1815年司祭に叙階された。3年後の1818年、リヨン教区のアルスの主任司祭に任命され、1859年の死までそこで農村の小教区の刷新に尽くした。当時のアルス村の教会はフランス革命の余波を受けて全く退廃しており、人々の信仰についての無知と無関心はその極に達していた。ヴィアンネー神父はアルス教会の刷新のために、まず主日のミサの復興に情熱を傾け、祭壇を飾り、高価な祭服などを揃えて典礼を盛り上げ、説教に力を入れて村人の信仰の覚醒に努めた結果、次第に信者の集まりも向上していった。一方、子供たちのカテケージスに取り組み、クラスを編成して子供たちの信仰教育を軌道に乗せた。また、ゆるしの秘跡に時間を割き、何時間も聴罪室で過ごした。やがてヴィアンネー神父の聖徳の評判はヨーロッパ中に広まって、アルスを訪れる人々は次第に数を増し、その対応に追われたという。一方、神父の衣食住は清貧に徹し、粗末な衣服や食事に耐えていた。
ヴィアンネー神父は1905年福者の位に挙げられ、1925年聖人に列せられた。そして1929年、小教区司祭の保護者と定められた。わたしの神学生時代、聖ヴィアンネーの評判は高く、特に司祭の模範として神学生の間でその伝記がよく読まれていた。今手元にないから正確であるかどうか分からないが、わたしも確か『農村の改革者、聖ヴィアンネー』を読んで聖人への憧憬を深め、司祭職への願望を刺激されたものだ。
「司祭年」開催のニュースを読んで、わたしは半世紀も前のアルス村巡礼の旅を思い出している。あれは忘れもせぬ1953年の夏のこと、カナダから日本への帰り道、福岡のサンスルピス大神学院に赴任するカズレ神父(すでに故人となった)に誘われ、二人でヨーロッパの旅を楽しんだのであるが、ロンドンやパリを経て、聖母の聖地ルルドに巡礼し、1309年から約70年間教皇庁の置かれたアヴィニョンを見学した後、リヨンの街を望む丘上の大神学院に宿をとった。アルス村はリヨン教区に属し、そんなに遠くない。翌朝、わたしたち二人はバスでアルスを訪れ、ヴィアンネー神父の遺跡に巡礼したのだが、神父が大切にした祭壇や告解室、司祭館や児童館などを見学して感慨にふけった。
半世紀以上も前のことで詳細は思い出せないが、神父が常食としていたじゃがいもを煮た鍋や、特に悪魔の仕業とされるベッド焼き打ちのあとが生々しく残っていたのを覚えている。悪魔はヴィアンネー神父の活動を妨害するために、その睡眠を妨げようと夜中に騒ぎ立て、ついにベッドに火をつけたと言われる。わたしは焦げたベッドを見ながら、使命感に燃えて熱心に働く司祭は悪魔の攻撃の的にされるのだという思いに駆られっていた。
主イエス・キリストはヨハネから洗礼を受けた後、聖霊に導かれて荒れ野に至り、40日40夜の断食の後、悪魔の誘惑を受け、見事これを払い除けられた。こうしてその使命を始められたキリストは、悪魔の誘惑に負けて神に背き、その支配下に堕ちた人類世界を、救いの業、すなわち、「死と復活の秘義」をもって「神の支配下」に取り戻された。「神の国」とは「神の支配」を意味する。キリストは以前、悪魔つきを癒されたときに言われた。「もし、わたしが神の霊によって悪魔を追い出しているのならば、神の国はあなたがたのところに来ているのである」(マタイ12,28)。
イエスの使命を引き継ぐ教会の目的は神の国である。従って、教会の使命は悪魔との戦いに他ならない。ならば、教会の指導者として神の国の建設のために働く司祭は、悪魔の集中的攻撃の的であるに違いない。悪霊の執拗な攻撃と、これに抵抗して勝利した聖ヴィアンネーの場合は、その象徴と言うべきだろう。
聖ヴィアンネーの没後150年を記念し、「キリストと司祭職への忠実」をテーマに催される「司祭年」は真に意義深い。この一年、司祭たちのために特別に祈りたいと思う。