小教区の人口をどう数えるか
カテゴリー 折々の想い 公開 [2009/06/25/ 00:00]
周知のとおり、カトリック教会は信者の司牧と人々への宣教を効率的に行うために小教区制度をとっている。この小教区制度を思うとき、よく思い出すのは、餓えた群衆にパンを配るために「人々を50人ぐらいずつ組にして座らせなさい」(ルカ9,14)と言ったイエスの言葉である。男子だけでも五千人はいた群衆に対して、「弟子たちはその通りにして、皆を座らせた。そこでイエスは五つのパンと二匹の魚とを取り、天を仰いで、それらのために賛美をささげ、これを手で分け、弟子たちに渡し、群衆に配らせた」(同上15-16)。大ざっぱではなく、最後の一人にまで気を配る配慮がそこに感じられる。こうして、小教区は、いわば教会活動の最前線を形成していることになる。
さて、小教区の所属信者の数え方であるが、一つは、名簿上のすべての信者、定められた小教区の地域に住むすべてのカトリック信者である。『カトリック教会のカテキズム』(n.2179)の小教区定義を待つまでもなく、小教区は所属信者の共同体なのである。従って、小教区の宣教・司牧活動は誰よりもまず、この所属信者全体から成る共同体のための活動でなければならないわけだ。わたしは若い時、すなわち司祭に叙階されてちょうど10年目に、新しく創立された小さな小教区に主任司祭として派遣されたが、小教区づくりのお手本としたのは当時フランスで小教区刷新の父と呼ばれていたミッショノー神父が著した一冊の本であった。”Paroisse, Centre de la Mission”(小教区、布教センター)というタイトルのこの本には、ミッショノ神父の小教区司牧の理論と実際をまとめたもので、彼がそこで強調するのはまず、集まってくる信者たちだけのための司牧であってはだめだということである。当時、彼が担当した小教区はパリの下町の、共産主義者の多い地域で、日曜日のミサに集まる信者は少数であって、ほとんどの所属信者たちが週日のミサをさぼっていたのである。こうして、神父は集まってくる信者たちを励ましながら、自ら先頭に立ってすべての所属信者たちを訪問し、これに働きかけた。
そこで、わたしもミッショノー神父に習い、担当地域に住んでいるすべてのカトリック信者を一軒一軒訪ね歩いてじかに信者を確かめ、名簿を作成し、委託されている信仰の遺産、何よりもみ言葉と聖体をすべての信者に漏れなく配るための組織を整備した。同時に、全員参加を合言葉として、各自が共同体に対して応分の貢献をするよう配慮した。特に意を用いたのは、さきにあげたイエスの故事に倣い、約50人ぐらいを目安に地域ごとに班制度を創設して、信者たちの物心両面にわたる相互扶助と近隣布教を実践するよう促した。わたしの経験によれば、これを嫌って隣の小教区に籍を移した一家族を除いて、すべての信者が喜んで協力した。
ミッショノー神父の小教区理念の中のもう一つは、さきにあげた著書のタイトルにあるとおり、小教区は担当する地域の「宣教センター」であるということで、従って、地域の全住民が、カトリック以外の諸宗教の人々や無神論者も含めて、宣教的には小教区のメンバーであり、小教区人口であって、従って、小教区の使命、すなわち任務は、地域住民全体のために具体的な宣教計画を立て、これを所属信者みんなの協力を得て実践する者でなければならない。ミッショノー神父は著書の中で述べている。「小教区の全精力(パワー)は、地域住民と集まる信者数との割合に応じて配分しなければならない」と。わが国の事情からすると、カトリック信者は極めて少数派であるから、小教区のエネルギーの大半は地域住民への宣教のあてなければならないことになろう。
当時、わたしの小教区では、幼稚園のほかに、班活動による近隣布教、二組のレジオ・マリエ、男女のJ.O.C.などのグループ活動、それに「クリスマス・レセプション」や「子供の集い」などの小教区活動があった。今にして思えば、実に楽しく、やりがいのある小教区時代であった。