神の国を証する独身

神の国を証する独身

カテゴリー 折々の想い 公開 [2009/07/10/ 00:00]

入来修道院

入来修道院

先日、知り合いのシスターが訪ねてきた。知り合いと言っても、もう半世紀以上も前、わたしが司祭として駆け出しのころ、彼女が修道志願者のころからの知り合いである。今、彼女は鹿児島教区内の入来修道院(写真)在住で、代表してわたしの霊名の祝いに駆けつけたのであるが、会話は当然、昔話になった。

わたしが留学から帰国して長崎司教館勤務に就いたのは1953年の10月。そのときから、歩いて10分ぐらいのところにある幼きイエズス会清心修道院、人呼んで「16番」のミサを担当することになった。シスターたちはマリア園という戦災孤児たちの養護施設を経営していたが、修道院には10人余りの修道志願者たちがいて、市内の高校に通っていた。わたしはミサのほかに志願者たちのゆるしの秘跡、大浦教会聖歌隊、マリア園の行事の手伝いなどで、彼女らと親しく付き合うことになった。あの志願者たちはほとんどが立派に修道女になり、若くして亡くなった一人を除いて、皆年は取ったがそれぞれに修道の道に励んでいる。

訪ねてくれたシスターと語り合いながら、わたしは当時の長崎の召命事情を思い出していた。あの頃、長崎の女子修道会には、「16番」ばかりでなく、「純心」にも「お告げ」にも大勢の志願者たちがいた。また、長崎教区ばかりでなく、男子の諸修道会にも大勢の神学生や志願者たちがいた。司祭や修道者として一生を独身で神にささげることをキリスト信者の一つの理想としてこれを尊敬し、一種の憧れをもって神学校や修道会を目指す「信仰の感覚」が長崎の教会にはあった。

人間の性は神が造られた尊いものである。これは、人類を愛して御独り子を渡された神の愛(ヨハネ3,16)にこたえて、人間も互いに愛し合い、与えあって一つになるようにとの神のご意思の表れである。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2,24)と言われて、結婚と家庭の制度が創始された。この尊い神の定めを十分に承知しながら、司祭や修道者(今日では「奉献者」と範囲を広げて呼ばれる)はその性の使用を断念して神にささげることを神からの召命とし、使命として生きている。それは、人類の究極の目的、娶ることも嫁ぐこともなく(マタイ22,30)、「顔と顔とを合わせて」(1コリント13,12)直接神と結ばれる終末の神の国への強烈な信仰と希望に基く。

従って、司祭や修道者の独身は人間の性を否定するものでもなければ、これを軽んずるものでもない。むしろ人間の性の尊厳を前提とし、これを敬い励ますものとして理解されてきた。前教皇ヨハネ・パウロ2世は言う。「神の国のための独身は、結婚の尊厳と矛盾するものではなく、むしろそれを前提として認め、かつ強めるものです。・・結婚が尊重されないなら、神にささげられた独身も存在しません。すなわち、創造主によって与えられた偉大な価値のあるものと考えられないなら、神の国のためにそれをささげることもその意味を失います」(使徒的勧告『家庭――愛といのちのきずな』n.16)。そして言われる。

「結婚と独身は、神とその民の間で結ばれた契約という、一つの神秘を表現して生きる二つの道である―Marriage and virginity or celibacy are two ways of expressing and living the one mystery of the covenant of God with his people 」(同上)。

結婚と独身は、「一つの神秘」を生きて証しする「二つの道」であるというのである。結婚も独身も、それぞれの立場で神の愛、キリストの愛のしるしとなって生きるとき、完全にその意味と価値を実現する。神の国にあずかる結婚、すなわちキリスト者同士の結婚は「偉大なる神秘」(エフェゾ5,32)と呼ばれ、その神秘のしるし、かつ恵みとして「秘跡」(カトリック要理)と言われる。一方、結婚を断念して性をささげ、徹底して神の国の神秘を信じて生きる独身は、結婚よりもさらに偉大な恵みとして称賛されるのである。

今、この飽食の時代に人々の関心ははかないこの世のご利益や享楽に向かい、移ろうことのない実在の神秘への興味を失っている。この現世主義的かつ物質主義的風潮の中でキリスト信者たちも影響されているのであろうか。いまや司祭や修道者への召命は減少し、その高齢化のためにあちこちの修道院や事業が閉鎖または譲渡されていく。思い出のあの16番もその事業とともに教会外の人手に移っている。こうして、たとえ事業は続いても修道者の証しは失われる。召命減少の原因はどこにあるのか。

主は言われる。「信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国とその義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6,30-33)。