長崎純心聖母会の創立者たち
カテゴリー 折々の想い 公開 [2009/09/25/ 00:00]
わたしと最も関わりの深い女子修道会といえば、やはり長崎純心聖母会である。姉二人と妹一人が入会しているうえ(姉の一人はすでに他界)、わたし自身も小神学校入学以来今日まで、公私にわたりかかわってきたからである。このほど、その純心聖母会の創立のころの記録をまとめた本をいただいた。『創立者ヤヌワリオ早坂久之助司教の「使命」と長崎純心聖母会の「創立のカリスマ」』という長いタイトルの本である。わたしはページをめくりながらしばし思い出にふけった。
長崎純心聖母会の創立者ヤヌワリオ早坂司教には、生前お会いしたことがある。わたしが長崎純心女子短期大学に哲学講師として通っていた昭和30年代、司教は純心学園の一角で老後を送っていた。毎週一度の講義が終わると、時々司教を部屋に訪ねて歓談する習慣があったのである。体は不自由でも気分はいつも元気いっぱいで、お暇する余裕も与えないほど話し続けるのであった。
司教は仙台市の生まれの幼児洗礼で、成人してローマはプロパガンダ・ウルバノ大学に学んでのち、司祭に叙階されて帰国した。ローマを立つ朝、プロパガンダの最後のミサで「・・今後世間という渺茫たる大海に乗り出でて、真理と真理の擁護者なる教会とのため、奮闘し得るよう力を願った」という。故国日本への宣教の使命感にあふれた帰国であった。そして1927(昭和2)年10月30日、聖ペトロ大聖堂でピオ11世教皇により日本人初の司教に叙階される。44歳であった。
叙階式において、教皇は「実に愛すべき兄弟よ、卿に委託される任務、卿に授けられる使命は、貴国民の間にキリストの御国を拡張すべく力の限り務めるにあるのです」と諭されたという。こうして長崎司教として着任した彼は、布教聖省長官ロッスム枢機卿の勧めや長崎教区司祭団の要望もあって、宣教活動の重要な手段として教育事業に乗り出すことを決意し、その事業を担当する教育女子修道会の創立に力を尽くす。そして、予ねて準備中の江角ヤス、大泉かつみ両修道女の初誓願、帰国を期して1934(昭和9)年6月9日、大浦天主堂は信徒発見のサンタマリアのご像の前で「純心聖母会」を創立した(創立記念日は同年12月8日)。
江角ヤス修道女は純心聖母会創立の際の中心人物であり功労者でもあるので、わたしは彼女を創立者の一人として尊敬している。シスター江角に最初に会ったのはわたしが小神学校に入学した1941(昭和16)年春のことである。父に連れられって長崎に着いたわたしは家野町の純心本部を訪ねた。純心にはすでに二人の姉が志願者として入会していたからである。まだ真新しい純心高等女学校の応接間に通されたわたしたち父子はそこで若き日の江角ヤス会長にお会いする。会長はわたしの小神学校入学を大変喜んでくださり、記念品として硯と筆をくださった。「司祭は字がちゃんと書けなければなりません」と。
その後、シスター江角とお会いする機会は数々あるが、その中の一つ。わたしが司祭となって長崎司教館に勤務していたある日、突然訪ねて来られたシスター江角は、わたしに長崎純心女子短期大学の哲学の講義を引き受けてくれるよう頼まれたのである。これまで哲学教授を務めていた大窄正吉神父が病に倒れて空席になっていたのである。大窄神父といえば知る人ぞ知る立派な哲学者でわたしなど足も音にも及ばぬ大物である。その後任とはとんでもないとお断りしたが、ぜひに、と何度も懇願されてついに応じないわけにはいかなくなった。こうして、その後11年間にわたって純心短大通いをすることになる。
いただいた本によれば、シスター江角の純心聖母会作りは困難を極めたらしい。それに、学校づくりもまた大変だった。こうした困難を乗り越えて修道会を育て、長崎をはじめ鹿児島、東京その他に幼稚園から大学まで教育事業を拡大し、併せて長崎原爆ホームなどの社会福祉にも事業を広げた背景には、フランスにおける修練者時代から培った十字架の神秘の霊性にあったようである。襲いかかる困難や苦しみの中に神のみ旨を信じかつ信頼して、純心創立にかかわる「福音宣教」への使命感と情熱を、あらためて思わずにはいられない。純心学園によく見られる標語、「いやなことはわたしが喜んで」も、世のため人のためなら、自分を犠牲にしても進んで取り組んでゆく十字架の霊性から来ているのだろうと思うことであった。