教会は「救いの普遍的秘跡」
カテゴリー 折々の想い 公開 [2009/10/25/ 00:00]
かつて教会には「教会外に救いなし」(extra ecclesiam nulla salus)という原理があり、この原理が排他的に解釈されたために、洗礼の秘跡をとおして目に見える教会に所属しなければ決して救いは得られないと考えられていた。しかし、「神はすべての人が救われて、真理を深く悟るようになることを望んでおられる」(1テモテ2,4)以上、教会に所属していない非キリスト者にも救いへの道が開かれていなければならない。この点、教皇ピオ12世はその回勅『キリストの神秘体』(Mystici Corposris /1943)において、見える教会の外にあっても救いがあると教え、第2バチカン公会議はこの言明を受け継ぎ、よりはっきりと非キリスト者の救いの可能性を教えると同時に、「教会外に救いなし」という原理はすでに教会内にいるカトリック者に適用される教訓的教えであることを明らかした。
第二バチカン公会議はさらに、教会外にいるすべての人の救いのために尽くすべき教会の使命を表現するために、教会は「救いの普遍的秘跡」(全人類救済のしるしかつ道具の意)という命題を明らかにした(『教会憲章』48:『宣教教令』1)。そして述べる。「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である」(『教会憲章』1)。
従って、すべての非キリスト者は教会に集うよう招かれており、それぞれの仕方で教会に秩序づけられている。「非キリスト者に関しては、公会議は、彼らは別の仕方で神の民に秩序づけられていると言う。非キリスト者に対して神が抱いておられる救済意思の種々のありように従って、公会議は四つのグループに分けている。すなわち、第一番目にユデア人、第二番目にイスラム教徒、第三番目に、自分の側に落ち度がなくて神の望みを果たそうとし努力しているひとびと、第四番目に、自分の側に落ち度がなく、いまだ明確な神の認識に至らず、しかし、そうであるにもかかわらず、正しい道を歩こうと努力している人々である(教会憲章16)」(国際神学委員会編『キリスト教と諸宗教』69)。
同時に、非キリスト者が教会の外で義化され、救われるとき、彼らは、教会に見える形で所属することなく、キリストの神秘、そしてキリストの体である教会の神秘に結ばれる。そして、終末においてキリストが現れるとき、彼らも普遍的教会として現れるであろう。
さて、「救いの普遍的秘跡」としての教会は、その使命をどのように果たすのであろうか。上記『キリスト教と諸宗教』によれば、「教会は救いの普遍的秘跡としての使命を証し(martyria)、典礼(leiturgia)、そして奉仕(diakonia)を通して果たす」のである。
まず、救いの普遍的秘跡として、教会は本質的に宣教する教会である。「救いの普遍的秘跡となるようにと神から諸国民のもとに派遣された教会は、教会独自の普遍的性格そのものに促され、また、自分の創立者の命令に従いつつ(マルコ16,16参照)、すべての人に福音を宣べ伝えようと心掛ける」(『宣教教令』1)。なお、わが国における福音宣教においては、神の存在のとその神秘、さらには神に愛され救われる人間の秘義につい語ることが特に重要であると考えている。
次に、「典礼―過越の神秘の祭儀―において、教会は全人類を代表してその祭司的使命を果たしている。神のご意思により、教会は、すべての人のための有効な方法として、われわれのために「罪となり」(2コリント5,21)、われわれを罪から解放するためにわれわれに代わって「木にかけられた(ガラテア3,13)キリストの代理行為を現在化する(教会憲章10)」(『キリスト教と諸宗教』78)。
最後に、奉仕において、教会は人類に対する神の愛のたまものについて証しし、正義と愛と平和の国の到来について証ししている。その際、諸宗教や諸文化の中にあるよいものを識別して受け入れ、またそれらを清め高めて福音化していくインカルチュレーションを大切にしていかねばならない(教会憲章n.17参照)。