激増する中国のキリスト教徒

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激増する中国のキリスト教徒

カテゴリー 折々の想い 公開 [2009/11/25/ 00:00]

中国

中国

ヴァチカンや世界の教会との正常な交流がもてない国はいくつかあるが、最も心配されてきたのはやはり中国である。13億という膨大な人口を抱える大国である上に、隣国や世界に対して大きな影響力を持つ国であるからである。その中国が去る10月1日、中華人民共和国の建国60年を記念した。

9月末、特集を組んだ朝日新聞に気になる記事があった。「神の教え 党より重視――激増する信者」と題して、中国のキリスト教事情を報告している。「49年の建国時に400万人だったキリスト教徒は今、政府公認団体で2100万人、地下教会を含めれば1億人以上とみられ、7500万人の共産党員をしのぐ。中国は屈指のキリスト教国である」とある。これらの数字や教会の実態を確かめる術はないが、驚くべき数字である。

信者が激増する理由として、「共産党は口先だけで何もしない。不公正な社会に希望は見いだせない」とか、「政府機関の幹部らは権力を使って利益を得ることばかり考えていた」などと、共産主義支配に対する失望から、隣人愛や民主化に期待してキリスト教に改宗しているという。ある教会代表は言う。「文化大革命で伝統文化が破壊され、精神的空白ができた。改革開放で貧富の差が広がり、89年の天安門事件では民主化の芽が摘まれた。民衆の希望を奪い続けてきた党自身が、布教に絶妙な環境を作ったのです」。

中国におけるキリスト教の事情を推測しながら、わたしは二つのことを考えた。一つは1989年の東ヨーロッパの出来事である。共産主義体制の東欧では、ポーランドを始めとして多くの国で長い間ひそかに続けられてきた「人間の尊厳と自由(人権)」のための「平和的抵抗」(回勅『Centesimus Annus』n.23)が、劇的な勝利を得た年である。ヨハネ・パウロ2世は言う。「人権の擁護と促進の面での教会の関与は、このような流れに重要な、決定的と言ってよいほどの貢献を果たしました」(同上22)。

今、中国のキリスト教徒たちも同じ立場に立たされていると考えてよいだろう。ただ、1億人のキリスト教徒とは言ってもいまだ少数派であり、おまけに改革開放政策によっていまや第二の経済大国になろうかという国であるから、簡単に民主化が進むとは考えにくい。だから、人間の尊厳と自由のための精神的かつ社会的な「平和的抵抗」は長期にわたることも予想される。わたしたちは中国の教会のために祈り続けたいと思う。

もう一つのことは、中国における人口の10パーセントにも達しようかというキリスト教の驚異的な伸びを見るとき、どうしてもわが国における宣教事業の停滞を考えてしまう。押しも押されもしない民主主義社会であり、信教の自由も100パーセント認められているにもかかわらず、キリスト教徒は非カトリックも含めて常に1パーセントを超えず、少なくとも数の点ではほとんど前進が見られない。なぜだろう?

その人間的な理由を探るのは決して容易ではない。ただ言えるのは、「現世に楽園を創造するという幻想のもとに行われる世俗宗教」(同上25)の誘惑がいかに人心を惑わすかに注目しなければなるまい。この迷いの一つは「知的傲慢」である。ルネッサンス以来の近代合理主義は多大な地上の進歩や富をもたらした半面、様々な形の世俗主義を誘発して創造主なる神を見えなくしている。「神は高ぶる者に逆らい、へりくだる者に恵みをたもう」(ヤコブ4,6;1ぺトロ5,5)のであるから、従って、謙虚に神の教えを学ぶことこそその療法であろう。「教会刷新の時期は、カテケージスの全盛期でもあります」という『カトリック教会のカテキズム』n.8の言明は意味深長である。

もう一つの宣教停滞の理由は経済発展であろう。実際、わが国において求道者が減少し始めたのは戦後経済の急激な発展の時期と歩調を共にしている。「お金に目がくらんで」と俗に言うが、まさにそれである。主は警告された。「金持ちが天の国に入るのは、難しいことである」(マタイ19,23)。教会は貧困を奨励しない。経済発展も好ましい。「開発」は、正しく行われれば「平和の別名」となる(パウロ6世回勅『諸民族の進歩』87参照)。しかし、豊かさは、仕えるべき本当の主人を忘れさせるから怖い。経済第一主義の矛盾が噴き出した今こそ、お金に支配されず、神に従ってお金を支配する「清貧の思想」と「経済構造」をしっかりと構築する必要がある。

ただ、これだけは確かである。訪日のとき、ヨハネ・パウロ2世は日本の教会を「小さな群れ」(ルカ12,32)と呼んで励ましたが、小さい群れであっても日本の教会はその使命を立派に果たしている。教会を通して働いているのはキリストとその霊だからである。