受肉により、キリストはすべての人と結ばれた
カテゴリー 折々の想い 公開 [2009/12/25/ 00:00]
降誕祭を迎えてわたしは第2バチカン公会議の言葉を思い出している。「神の子は受肉することによって、ある意味でみずからをすべての人間と一致させた」(現代世界憲章22)。わたしはこの言葉を初めて読んだとき、強烈な印象を受けた。キリストがすべての人のために生まれて死んだことは信じていたが、このような表現は初めて聞いたからである。
天地創造の初め、人間は人祖アダムにおいて「一つの人類」として造られた。アダムの創造は個人の創造ではなく、人類全体の創造を意味したのである。しかし、人祖アダムの罪によって人類は分裂し、ちりぢりに散らばってしまった。これに対し、第2のアダムといわれるイエス・キリストは、神の子でありながら人間性を取ってこの世に降り、人類に結ばれるとともに人類の罪を一身に背負ってあがない、新しい人類を創造したのである。
聖パウロは言う。「(ご意思に秘められた神秘とは)、天にあるもの、地にあるもの、すべてのものを、キリストを頭として一つに結び合わせるということです」(エフェゾ1,10)。これを裏付けるかのように、ヨハネ福音書は述べている。「(キリストは)、散らばっている神の子たちを一つに集めるために(死ぬ)」(ヨハネ11,52)。
カトリックという言葉は二つの意味にとれる。これを名詞的にとれば、他の一切の宗教や宗派から「区別された教会」が強調され、これを形容詞的にとれば、すべての人の救いのために遣わされ、一切の宗教や宗派をある意味で包含する「普遍的な教会」の意味になる。そして長い間、形容詞としての「カトリック」を、名詞として使うことが多かったのではないか。古代ローマにおいては勿論、キリスト教が宣べ伝えられる世界各地において迫害があり、とくにわが国でも世界一厳しいと言われる迫害の嵐が吹き荒れたから、教会は自己を守るために内にこもり、地下に潜って孤立していた。多くの敵を回りに見て、心ならずも「排他的」にならざるを得なかったであろう。
わたしの故郷長崎においては、信教の自由を完全に取り戻した太平洋戦争後においても、どちらかといえば信仰を守るという強い意志と共に、なんとなく信仰を隠そうとする傾向がなかったとは言えない。それだけに、人となってこの世に来られたキリストは、すべての人、たとえキリスト教に対して敵対する人々も、すでにキリストと結ばれ、キリストの体に合体すべく呼ばれているという感覚は、公会議のあの言葉と共に新鮮に感じないわけにはいかなかったのである。
しかし、世間の人々のなかには、未だに一神教批判があり、キリスト教は排他的であると言って非難する者がいる。先日もある有名な政治家がそう言ったと新聞が報道した。しかし、そのような人々に対しても、わたしたちは排他主義ではなく包括主義で臨まなければならない。長い間、排他主義の誤解を生んできた「教会外に救いなし」という標語は、ピオ12世によって既に克服され、包括主義的視野で理解されるようになって久しい。教皇ヨハネ23世はエクメニズム(信仰一致運動)に関して、「違いよりは共通のものを強調しよう」と呼び掛けられたが、これは諸宗教にも広げなければならない。
もちろん、この包括主義は混同主義でもなければ万教同根説でもない。宗教多元主義はわたしたちの取る路線ではない。そうではなく、すべての人が回心と信仰をもってキリストに結ばれるよう呼ばれている。そのための通常の手段が洗礼の秘跡であることも変わりない。神の子が受肉によってすべての人に結ばれたのは「ある意味で」なのである。つまり、受肉によってすべての人に結ばれたキリストの愛はいわば「片思いの愛」であって、人間各々の側から回心と信仰をもってキリストの愛にこたえることが必要なのである。
だから、「あなたがたは行って、すべての国の人々を弟子にしなさい」(マタイ18,19)という主の言葉が思い出されるのだが、現在の世相は相変わらず「経済大国の夢よ、もう一度」であり、キリストの宣教には決して有利な時ではないようにも見える。しかし、世知辛い時はかえって宣教の好機かもしれない。いずれにせよ、聖パウロが愛弟子テモテに命じた言葉は今もわたしたちの耳朶に響いている。「あなたに厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。よい時にも、悪い時にも、常にこれに専念しなさい」(2テモテ4,2)。