受肉により、キリストはすべての人と結ばれた
降誕祭を迎えてわたしは第2バチカン公会議の言葉を思い出している。「神の子は受肉することによって、ある意味でみずからをすべての人間と一致させた」(現代世界憲章22)。わたしはこの言葉を初めて読んだとき、強烈な印象を受けた。キリストがすべての人のために生まれて死んだことは信じていたが、このような表現は初めて聞いたからである。
天地創造の初め、人間は人祖アダムにおいて「一つの人類」として造られた。アダムの創造は個人の創造ではなく、人類全体の創造を意味したのである。しかし、人祖アダムの罪によって人類は分裂し、ちりぢりに散らばってしまった。これに対し、第2のアダムといわれるイエス・キリストは、神の子でありながら人間性を取ってこの世に降り、人類に結ばれるとともに人類の罪を一身に背負ってあがない、新しい人類を創造したのである。
聖パウロは言う。「(ご意思に秘められた神秘とは)、天にあるもの、地にあるもの、すべてのものを、キリストを頭として一つに結び合わせるということです」(エフェゾ1,10)。これを裏付けるかのように、ヨハネ福音書は述べている。「(キリストは)、散らばっている神の子たちを一つに集めるために(死ぬ)」(ヨハネ11,52)。
カトリックという言葉は二つの意味にとれる。これを名詞的にとれば、他の一切の宗教や宗派から「区別された教会」が強調され、これを形容詞的にとれば、すべての人の救いのために遣わされ、一切の宗教や宗派をある意味で包含する「普遍的な教会」の意味になる。そして長い間、形容詞としての「カトリック」を、名詞として使うことが多かったのではないか。古代ローマにおいては勿論、キリスト教が宣べ伝えられる世界各地において迫害があり、とくにわが国でも世界一厳しいと言われる迫害の嵐が吹き荒れたから、教会は自己を守るために内にこもり、地下に潜って孤立していた。多くの敵を回りに見て、心ならずも「排他的」にならざるを得なかったであろう。
わたしの故郷長崎においては、信教の自由を完全に取り戻した太平洋戦争後においても、どちらかといえば信仰を守るという強い意志と共に、なんとなく信仰を隠そうとする傾向がなかったとは言えない。それだけに、人となってこの世に来られたキリストは、すべての人、たとえキリスト教に対して敵対する人々も、すでにキリストと結ばれ、キリストの体に合体すべく呼ばれているという感覚は、公会議のあの言葉と共に新鮮に感じないわけにはいかなかったのである。
しかし、世間の人々のなかには、未だに一神教批判があり、キリスト教は排他的であると言って非難する者がいる。先日もある有名な政治家がそう言ったと新聞が報道した。しかし、そのような人々に対しても、わたしたちは排他主義ではなく包括主義で臨まなければならない。長い間、排他主義の誤解を生んできた「教会外に救いなし」という標語は、ピオ12世によって既に克服され、包括主義的視野で理解されるようになって久しい。教皇ヨハネ23世はエクメニズム(信仰一致運動)に関して、「違いよりは共通のものを強調しよう」と呼び掛けられたが、これは諸宗教にも広げなければならない。
もちろん、この包括主義は混同主義でもなければ万教同根説でもない。宗教多元主義はわたしたちの取る路線ではない。そうではなく、すべての人が回心と信仰をもってキリストに結ばれるよう呼ばれている。そのための通常の手段が洗礼の秘跡であることも変わりない。神の子が受肉によってすべての人に結ばれたのは「ある意味で」なのである。つまり、受肉によってすべての人に結ばれたキリストの愛はいわば「片思いの愛」であって、人間各々の側から回心と信仰をもってキリストの愛にこたえることが必要なのである。
だから、「あなたがたは行って、すべての国の人々を弟子にしなさい」(マタイ18,19)という主の言葉が思い出されるのだが、現在の世相は相変わらず「経済大国の夢よ、もう一度」であり、キリストの宣教には決して有利な時ではないようにも見える。しかし、世知辛い時はかえって宣教の好機かもしれない。いずれにせよ、聖パウロが愛弟子テモテに命じた言葉は今もわたしたちの耳朶に響いている。「あなたに厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。よい時にも、悪い時にも、常にこれに専念しなさい」(2テモテ4,2)。
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キリスト教は、イエス様のご復活から出発したと聞いています。またそう信じます。
神様が、イエス様をご復活させられたことにより、イエス様のおことば、行いが、真理であると認知され、か弱い弟子たちも、イエス様のご復活に、遭遇し、生まれ変わり、伝道し、今のキリスト教があると信じています。
イエス様のご復活は、終末のとき、裁きの時、が来て、イエス様が再臨された時、すべてのキリスト者が、、霊と肉をもって、復活できることを、教えていただいた希望と事実だと信じています。
また、キリスト教は、プラトン的霊肉のギリシャ哲学で、肉は悪、死んだら霊が肉から離れて、永生するというものでもないと信じています。いや、そう信じさせてください。
イエス様のご復活も、ただ単に、イエス様の霊が、現れたというものではなく、全能の神、藁一筋からでも、創造できる父なる神が、全くわれわれと違った霊と肉をもったご復活体をイエス様に与えて、イエス様の教え、あるいはイエス様自身が真理であることを示されたと信じます。
ここで質問があります。
今現在、復活されているのは、イエス様だけだという認識でいいのでしょうか?
我々には、これから確実にくる終末における復活が固く約束されていると信じます。
われわれは、今、死んだら、イエス様が十字架でお亡くなりになり、父よ、わが霊をあなたにゆだねますといわれたように、霊が肉を離れ、天国、煉獄、地獄に、黄泉の期間を経て、行くということを信じています。
そして、聖ペテロをはじめとした聖人たちは、その霊が、天国にいらっしゃって、われわれと聖徒の交わりをしてくださっているという事実認識でいいのでしょうか?
したがって、天国にいらっしゃる聖人達も、もちろん、終末に我々とともに復活されるということでいいのでしょうか?
私の信仰では、多分に日本的なあの世、この世という考え、ギリシャ的な霊肉という二元論の傾向があります。
私は霊と肉からできていることは、どう考えても自明の理です。
われわれは、どこで、どう、いつ、その霊と肉が分離するか知らない死刑囚だと思います。無神論者、快楽主義者、動物から人生を学べ主義者、あらゆる宗教者にとって、自分が死ぬという事実は、客観的事実だと思います。
また、天国、地獄、煉獄があることも、日々の精神生活で、感得出来ます。
ただ、死んで、天国に行って、神様と至福直観の世界に、行けばいいのではないかと思ってしまうのです。
こう考えてしまい、納得している自分を、つくずく、日本的、ギリシャ的だと思います。
キリスト教がキリストの復活にかかっていることはご指摘のとおりです。復活によってキリストご自身の言葉や業はもちろん、旧約聖書以来のすべての啓示の真実性が保証されたのです。こうしたまた、人間と世界の究極の意味と目的も明らかになりました。
わたしたちの人間理解は、肉体と霊魂とから構成された一つの実体ということであって、、プラトンのようなな二元論的な人間観とは基本的に違います。
肉体と霊魂が分離する死によって人間はいったん亡びますが、残った霊魂はキリストの救いにより、終末においてからだの復活を遂げ、霊肉備えた人間として至福のいのちに入ります。わたしたちはからだの復活の希望に生きており、天国の聖人や煉獄の魂たちも終末の復活を待っています。ただ、無原罪のマリアだけは神の母として死の腐敗に服することなく、すでに復活して天に揚げられました。
明確に解りました。
有難うございました。