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現役を退いて暇になると、何かにつけて過ぎし日を思い出し、また、いろいろと考えごとをしてしまう。こうした折々の想いをインターネットに公開して、多くの方々と分かち合おうというのがこのサイト。
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貧しい人々と連帯する教会

by P.Itonaga posted at 2010-01-12 15:21 last modified 2010-01-12 17:51
路上生活者のクリスマス会

昨年の「年越し派遣村」の記憶はまだ新しいが、今年は、雇用情勢など決して改善されていない中、国や自治体による公設派遣村や、NPOの配慮などの民間の協力で何とか事態は改善されたようである。もちろん教会関係の協力も各地で行われたはずである。鹿児島のザビエル教会も年末・年始にも普段と変わりなくホームレスへのサービスを行った。

ところで、人生の様々な重荷を背負い、生きるために助けを求めている「貧しい人々」は遠い途上国にばかりでなく身近にも存在する。しかも、種々の理由でその数は増している。彼らを助けることは、社会的正義に基づく政治の重大な務めであるだけでなく、彼らが神の国において特別な地位を占めるという信仰上の観点から、教会の重大な使命でもある。『カトリック教会のカテキズム』は述べる。

「神の国は貧しい人々と小さい人々、すなわち、謙虚な心でこれを迎える人たちのものです。イエスは『貧しい人に福音を告げ知らせるために』(ルカ4,18)遣わされました。イエスはこのような人々は幸いだと言明されます。『天の国はその人たちのもの』(マタイ5,3)だからです。御父は、知恵ある者や賢い者には隠されていることを、これらの『小さな人々』にこそ示されるのです。イエスは、ベツレヘムの飼い葉桶から十字架に至るまで、貧しい人々の生活を体験されました。飢え、渇き、貧窮を経験されます。なおそのうえに、ご自分をすべての貧しい人々の立場に置き、こうした人たちへの積極的な愛を神の国に入るための条件となさいました」(n.544)。

こうして、キリストと深く結ばれた貧しい人々は、キリストの体である教会とも深く結ばれており、教会は自ら貧しい者となるばかりでなく、貧しい人々と連帯してこれに仕えることを使命とする。前教皇ヨハネ・パウロ2世は言われる。「貧しい人々に対する教会の愛は、教会にとって本質的なものであり、それは教会の不変の伝統の一部となっている」(回勅『新しい課題』57)。

貧しい人々と連帯する教会の務めは、具体的にはとくに日曜日のミサの集会そのものに表れる。『カトリック教会のカテキズム』は次のように述べる。

「エウカリスチア(聖体または聖体祭儀)は貧しい人々との連帯を強めさせてくれます。わたしたちのために渡されたキリストのからだと血をふさわしくいただくには、その兄弟であるもっとも貧しい人々のうちにキリストを認めなければなりません」(n.1397)。ここで、主ご自身の言葉が思い出される。「これらのわたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしたのである」(マタイ25,40)。

さらに、主日ミサにおける教会の貧しい人々に対する務めは、ミサの献金(募金)を通して具体的に実行される。『カトリック教会のカテキズム』ははっきりと述べる。

「当初から、キリスト者はエウカリスチア(聖体祭儀)のためのパンとぶどう酒のほかに、困っている人々への施し物を持参していました。今も実践されているこの施し物を集める(募金の)習慣は、わたしたちを豊かにするために貧しくなられたキリストの模範から霊感を得たものです」(n.1351、一部筆者訳)。

古代教会においては、実際に聖体用のパンとぶどう酒を奉納し、同時に貧しい人々を助けるためのパンやぶどう酒などの施し物を持参していた。現在はそれらをお金に換えて奉納しているが、その意味は一貫して変わらない。この教会の伝統を受けて、前教皇ヨハネ・パウロ2世はその使徒的書簡『主の日』の中で大要次のように勧告している。

「週日の集会は、使徒たちの時代より、キリスト者にとって最も貧しい人々との兄弟的な分かち合いのときでした」と述べ、「施し」の意味については持てる者が持たない者との分かち合いの奨励であると述べている。教皇はまた、助けを必要とする貧しい人々はわたしたちの周りにいるのであるから、キリスト者は絶えず周りを見回して小さな兄弟たちを探し、日曜日の時間を利用して彼らを見舞い、交わりと分かち合いを実践するよう勧告している(『主の日』70-72参照)。

もしもこの明らかな教えが実際に生かされたら、小教区は地域社会により深く溶け込み、そこにいる小さな兄弟たちとの人格的な交わりと助け合いを通してキリストの愛を証しするという、地域宣教の新たな道が開けてくるのではないかと思う。

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