霊性を生きる宗教の本質は「祈り」

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霊性を生きる宗教の本質は「祈り」

カテゴリー 折々の想い 公開 [2010/05/15/ 00:00]

100515肉体をもちながらも霊的な存在である人間の生活の本質は「祈りの生活」であると言ってよい。つまり、祈りなくしては人間の生活は成り立たないというわけである。そして実際、昔から人間は何らかの形で神性を信じて祈りをささげてきた。そこで今回は、祈りの生活について考えてみたい。

人間は霊的な存在である。つまり、人間は肉体と霊魂から成っている一つの存在者であって、人間の肉体は神の似姿の尊厳にあずかる尊い存在である。それが人間の肉体であるのは、霊魂によって生かされているからである。すなわち、物質から成る肉体は霊魂の働きによって生きた人間のからだとなっているのである。そしてその霊魂は、それぞれ、直接神によって創造されたものである(『カトリック教会のカテキズム』362-366参照)。唯物論者は人間の精神は物質の進化の結果であると唱えるようだが、それは誤解である。

こうして、霊的存在である人間はその存在全体において神によって支えられ、生かされている存在である。その意味で、すべての人間はその存在自体において神とかかわっており、従って、本質的に宗教的な存在である。宗教的存在であるがゆえに、すべての民族に何らかの宗教生活があり、それは祈りにおいて表現される。霊性を生きる人間の宗教生活はすなわち祈りの生活であると正当に言える。そういう意味において、祈りはすべての人間、すべての宗教において共通であると言わなければならない。祈りは人間が神のうちに生きていることの証である。

しかし、人類共通の祈りが旧約聖書の時代に新しい段階を迎える。それは、神ご自身が人類の歴史に介入し、預言者たちを通してご自分を現し、そして語りかけられたからである。「主はアブラムに言われた。『おまえの国、おまえの親族、おまえの父の家を離れ、わたしがお前に示す土地に向え。わたしはおまえを大きな民にする。…おまえによって、地のすべての民はかれら自身を祝福する』。(創世記12,1-4)。「アブラムはその地に入り、…自分に現れた主のために祭壇を築き、主のみ名を呼んだ」(同12,6-8)。

こうして、人類の創造者である神はアブラム(後にアブラハムと呼ばれる)を召し出して古代イスラエル民族の太祖となして語りかけ、アブラハムもこれにこたえて神に語りかける。ここに、文字どおりに「対話」としての祈りが始まるのである。 そしてその後、約2500年にわたる旧約の歴史において神は数々の預言者たちを通してその民に語りかけ、神の民もまたいろいろの機会に神に祈りをささげてきた。その代表的な祈りが「詩篇」の祈りである。人間が神に語りかけた祈りである詩篇は、150編の詩集を集めたものであり、一つの時代、一つの場所に限定されず、ダビデの時代から捕囚後の時代までの数百年の間に、種々の環境において、いろいろの人や団体によって作られ、改作されたものである。

しかしまた、神に対する人類の祈りは、父なる神に派遣され、人となってこの世に来られた神の子キリストによって新たな段階を迎え、完成される。まず、人類に対する神の語りかけはキリストによって完成される。「神は、昔、預言者たちを通して、いろいろな時に、いろいろな方法で先祖たちに語られたが、この終わりの時代には、御子をとおしてわたしたちに語られました」(ヘブライ1,1-2)。同時に、語りかける神への人類の祈りは、代表となったキリストにおいて完全に実現した。つまり、「神と人との間の唯一の仲介者である」(1テモテ2,5)キリストは、人類に代わって御自らをみ旨に叶ういけにえとして御父にささげ、「霊と真実による礼拝者」(ヨハネ4,23)となったのである。

キリストによって完成された新約の祈りは個人的な祈りから教会の公的な祈り(典礼)に至るまで実にさまざまに、そして豊かに行われるが、その「源泉かつ頂点」(典礼憲章10)となるのは言うまでもなく聖体祭儀(ミサ)である。しかし、新約の祈りの簡潔な集約はキリストが教えた、いわゆる「主の祈り」であり、キリストの全福音の要約として、人類のあらゆる願いを七つの願いに集約した基本的な祈りである(『カトリック教会のカテキズム』2761参照)。日本のカトリック教会と聖公会とが共同で訳した「主の祈り」は次の通りである。

  天におられるわたしたちの父よ、 
  み名が聖とされますように。
  み国が来ますように。
  みこころが天に行われるとうり地にも行われますように。
  わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
  わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
  わたしたちを誘惑におちいらせず、
  悪からお救いください。

いつか主の祈りについてブログで取り上げてみたい。