ミサをささげ続けて58年

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > ミサをささげ続けて58年

ミサをささげ続けて58年

カテゴリー 折々の想い 公開 [2010/05/30/ 00:00]

わたしの思い出のカリス

わたしの思い出のカリス

昨年6月19日、イエズスの聖心の祝日に始まった「司祭年」もあと少しとなった。多くの熱心な信者たちの祈りや励ましに心底から感謝しつつ、この9月で司祭叙階58年を迎える長い司祭人生を振り返っているが、中でもほぼ毎日ささげてきたミサは司祭生活の中心であるから、その思い出は尽きない。その一端をご披露しよう。

ただ一度だけしかミサをささげなかったとしても、司祭になる意味があると言われる。それほどにミサは偉大でかけがえのないものであり、またミサをささげるためにこそ司祭があるということである。だから、司祭はたとえ参列する信者がいなくて、ただ一人の時であっても、ミサを欠かさないようにと勧められてきた。一人でささげても、ミサは教会共同体のミサであり、人類の歴史、つまり救いの歴史の中心であり頂点である過越の神秘(misterium paschale)の記念であり現在化であるからである。

そこでわたしも「ほぼ毎日ささげてきた」と書いたが、それは、旅行中や病気の時など、特別の妨げがない限り毎日という意味である。ただ一度だけ例外がある。カナダ留学からの帰り道、モントリオールからリヴァプールまで英国の客船で大西洋を渡ったのであるが、その船のサロンは毎朝チャペルに早変わりして祭壇がしつらえられ、旅行中の司祭たちがミサをささげられるようになっていたから、同行の友人司祭とともに毎朝ミサをささげることができた。船が揺れるたびにふらふらしながらのミサはやはり思い出深い。

58年にわたるミサの役務において特別な思い出はやはり「ラテン語のミサ」から「日本語のミサ」に変わったことである。16世紀、宗教改革に対するカトリックの「反宗教改革」の一環として、ピオ5世教皇によって定められたミサ典礼は世界中でラテン語を使うように定められていたが、第2バチカン公会議はその典礼改革において、ミサを含めたすべての典礼でそれぞれの国語で行うことが可能になった。1963年12月4日に公布された典礼憲章は述べる。

「ラテン語の使用は、特殊権を除き、ラテン典礼様式において遵守される。しかし、ミサにおいても、また典礼の他の分野においても、国語の使用は人びとのために非常に有益な場合が少なくないから、より広範囲にわたって国語を用いることも可能である。」(典礼憲章36)。

典礼の国語化はその国の司教団の責任において行われるが、日本の司教協議会は典礼憲章公布から2年たった1965年には「ミサに関する司牧指針」を発表し、国語ミサの通常式文の使用が開始された。当時、わたしは長崎市内の一主任司祭であったが、班集会(家庭集会)などでひざを交えて信徒たちと勉強しながらミサの国語化に取り組んだ。こうして、わが国の信者たちもわかる言葉で行われるミサにあずかることができるようになった。あれから40有余年、いまだにラテン語ミサにこだわる人々もいるようだが、典礼の国語化はまさに本来の教会典礼の姿であると言えよう。アブラハムの召し出し以来、神は人間に分かる言葉で話しかけてくださったのだから、わかる言葉で神の言葉を聞き、自分たちの言葉で祈ることは当然である。今では日本語ミサがすっかり身について、あのラテン語時代を思い出すのが一苦労といった次第である。

ミサといえば、使用するカリス(聖杯)の思い出も忘れ難い。過去58年間、様々なところでいろいろなカリスを使用してミサをささげてきたが、8年前の司祭叙階50周年記念の年から、わがチャペルでのミサでは、司祭叙階から間もないころカナダの友人たちから贈られた思い出のカリス(写真)を使っている。初心を思い出すためである。カリスの裏には次のような献呈の言葉がフランス語で刻まれている。

 「1953年1月6日、多数のカナダ人は、パウロ糸永真一神父様にこのカリスをお贈りすることを喜びとします。末長い実り豊かな使徒的生活への敬意と願いを込めて」

「多数のカナダ人」(plusieurs Canadiens)とは、当時、モントリオ-ル市内の日系カトリック信者たちが日曜日のミサに集まっていた家の女主人とその知り合いの修道女、そして彼女が経営するある女学校の生徒たちのことで、彼女たちがお金を出し合って、太平洋を隔てた遠い日本の若い司祭に贈ってくれた友情のあかしである。