キリストが教えてくださった「主の祈り」
カテゴリー 折々の想い 公開 [2010/06/10/ 00:00]
わたしが「主の祈り」を唱え始めたのは何才だったのだろう。あの頃、わが家では家族そろって「公教会祈祷文」にしたがって朝夕の祈りを唱えていたから、小学校に上がる前からだろうと思う。当時、主の祈りは「主祷文」と呼ばれ、「天にまします」で始まる文語体であった。あれから長い年月が過ぎたが、今あらためて主の祈りに注目している。
主の祈りの由来について、マタイ福音書では主イエスが自ら教えられたとなっているが、ルカ福音書では弟子の願いにこたえて教えてくださったことになっている。「イエズスはある所で祈っておられた。祈りが終わったとき、弟子の一人が、『主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたくしたちにも祈ることを教えてください』と言った。そこでイエズスは仰せになった。『祈るときには、こう言いなさい。
父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を、毎日与えてください。
わたしたちの罪を赦してください。
わたしたちも、自分に負い目のある人を皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』
(ルカ11,1-4・新共同訳)。
マタイ福音書による「主の祈り」(マタイ6,9-13)の現代訳は前々回、この欄で紹介した。そこで、『カトリック教会のカテキズム』は述べる。「聖ルカによる福音書は短い文(五つの願い)を、聖マタイによる福音書はより長い文(七つの願い)を伝えています。教会の典礼伝承は聖マタイの文を踏襲しています」(n.2759).
ルカ福音書とマタイ福音書の違いについては、従来、ルカ福音書による短い文の方が本来の文であろうと言われ、マタイ福音書の長い方においては、二つの願いに説明的な願いがそれぞれ付け加えられていると理解されてきた。そして、カテキズムが言うように、マタイ福音書による主の祈りが公的に使用されてきた。
カテキズムは、「主の祈り」の総体的な意味を「全福音を要約する祈りであり、もっとも完全な祈り、聖書の核心である」として、次のように述べる。「主の祈りは、「全福音の要約そのもの」(テルトゥリアヌス)になっています。主は、『祈るようにと教えられた後で、願いなさい。そうすれば与えられる』(ヨハネ16,24)と言われました・・・」(n.2761)。
そこで、まず、主の祈りは「全福音の要約」であるから、「イエズスの教えが主の祈りを解明し、主の祈りがイエズスの教えを解く鍵である」(シュールマン著『キリストの教えた祈り』はしがき)ということになる。主の祈りはキリスト教信仰がなくても唱えることはできるけれども、本当の意味はキリスト教を知らなければ理解できないということであり、また逆に、主の祈りはキリスト教がなんであるかを端的に示しているわけである。だから、信仰が深まるにしたがって、主に祈りも深まる。
次に、主の祈りはキリスト者が何を祈らなければならないかを教えてくれる。カテキズムは言う。「願いなさい、そうすれば与えられる(ヨハネ16,24)と言われました。だから、それぞれの必要に応じて神に願うことができはしますが、やはり、つねに正式な[主の]祈りから始めるべきです。この祈りこそあらゆる願いが集約された基本的な祈りだからです」(n。2761)。
つまり、キリスト教のすべての祈りが、この短い五つの願いの中に集約されているということである。聖アウグスチヌスは、「あなたが聖なる嘆願の言葉をすべて調べれば、主の祈りに含まれない嘆願はないことに気がつくと思います」と言っている。また、聖トマス・アクイナスも、「主の祈りはもっとも完全な祈りです。・・・主の祈りにおいては人間として望むことができるすべてのことが願われているだけでなく、正しい順序をもって願われています。従って、この祈りは、願うべきことを教えるだけでなく、わたしたちの思い全体を秩序づけるものでもあります」と言っている。
要するに、わたしたちは何を願ってもよいが、何よりも大切なことは、自分の思いではなく、神の思いが実現されることをまず願わなければならないということであり、主の祈りはそれを表しているということである。