「主の祈り」における七つの願い
カテゴリー 折々の想い 公開 [2010/07/10/ 00:00]
教会が採用している、マタイ福音書による「主の祈り」には七つの願いが含まれている。『カトリック教会のカテキズム』にしたがって、七つの願いの内容をまず総括的に見ていくことにする。そこではキリスト者の祈り方の基本が明らかにされよう。
はじめに、カテキズムは言う。「神を礼拝し、愛し、賛美するために父である神のみ前に立つわたしたちは、子とする霊に助けられて心からの七つの願い、七つの賛美をささげます。最初の三つは言わば対神的なもので、そこでわたしたちは御父の栄光を祈り求め、御父のもとへわたしたちを導いてくれる後の四つでは、わたしたちの弱さを御父の恵みにゆだねます。『深淵は深淵を呼ばわる』(詩篇42,8)のです」(n.2803)。
要するに、主の祈りの最初の句、「天におられるわたしたちの父よ」と唱え、「神を礼拝し、愛し、賛美して」御父の前に立つわたしたちは、聖霊に助けられて七つの願いをささげる。最初の三つは神の栄光を祈り求め、後の四つの願いでわたしたち自身のために祈るのである。神の都合よりも自分たちの都合を前面に出して祈る、いわば「利己的な祈り」に陥らないように注意しなければならない。
だから、カテキズムは次いで言う。「最初の波は、み名(筆者註:あなたの名nomen tuum)、み国(筆者註:あなたの国regnum tuum)、みこころ(筆者註:あなたの意思voluntas tua)
という形となって、わたしたちを御父の方へと向かわせます。まず自分が愛する者のことを思うのが愛の特性です。わたしたちはこれらの三つの願いのいずれでも、「わたしたち」とは言いません。わたしたちの心をとらえているのは、御父の栄光を思う最愛の御子の『熱烈な望み』であり、その『苦悩』なのです(ルカ22,15;12,50参照)。この『・・聖とされますように、・・来ますように、・・行われますように』という三つの願いは、救い主キリストの犠牲によってすでに聞き入れられてはいますが、今は、希望を抱いてその最終的成就を願い求めるのです。神はまだ、すべてにおいてすべてとはなっていないからです(1コリント15,28参照)」(n.2804)。
カテキズムはさらに言う。「願いの第二の波は、幾つかのエウカリスチアのエピクレシス(聖霊の働きを願う祈り)へと展開されていきます。それは、わたしたちが期待していることを神に申し上げ、あわれみ深い御父のまなざしを引き寄せるものです。それはわたしたちからのぼっていくものであり、『・・わたしたちにお与えください。・・わたしたちをおゆるしください。わたしたちを・・陥らせず、わたしたちを・・お救いください』という言葉でも分かるとおり、現に今この世に住んでいるわたしたちにかかわるものなのです。第四と第五の願いは、あるいは食べ物、あるいは罪からのいやしという内容の、わたしたちの生活そのものに関することです。最後の二つは、いのちの勝利を得るための戦い、祈りの戦いに関する願いです」(n.2805)。
「最初の三つの願いによって、わたしたちは信仰を強められ、希望に満たされ、愛の炎を燃え立たせていただきます。被造物である上に罪びとでもあるわたしたちは、自分自身のためにお願いしなければなりません。ここでいう『わたしたち』とは世界と歴史の全体を含むもので、そのすべてを神の限りない愛におゆだねするのです。神はキリストのみ名と聖霊の統治権とを通して、わたしたちと世界全体を救うというご自分の計画を実現してくださるからです」(n.2806)。
神の英知に対して人間理性の完全な自立を求めるあの近代合理主義の勃興以来、人間の力だけで地上の楽園を築こうと夢見た近代文明にとって、神のご意思を優先する主の祈りの精神を理解し、実践することは難しいことに違いない。しかし、最近の歴史的な展開を見る限り、経済第一主義を掲げる「抑制なき」資本主義も、神を否定して万民の平等を目指したマルクス主義も、ともに破綻した今、人類は再び神に立ち返り、神のご意思、そのご計画の実現の中に人類の幸せを求める「主の祈り」の精神に立つことが必要なのではないか。その意味でも、主の祈りを再発見し、心こめて主の祈りを唱える習慣を身につけたいと思う。