第一の願い “み名が聖とされますように”
カテゴリー 折々の想い 公開 [2010/07/25/ 00:00]
主の祈りの第一の願いは「み名が聖とされますように」であり、これに続く六つの願いを総括するような序言的な願いであるという。そこには、主イエス・キリストご自身の切なる願いが込められてもいる。それだけに、わたしたちもこの願いを主と共有する必要があろう。
さて、「み名」とは「神の名」であり、神ご自身を意味する。「聖とする」とは、「聖なるものとして認める、聖なるものとして取り扱う、という評価の意味で理解されるべきです」(『カトリック教会のカテキズム』2807)。そして、「神の聖性とは神の永遠の神秘の近づきがたい深奥にあるものです。これを創造と歴史の中で表すものを、聖書は栄光、つまり、神の威厳の輝きと呼んでいます」(同2809)
事実、聖書は神を三重に聖なるかたと呼び、その栄光をたたえる。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は、地をすべて覆う」(イザヤ6,3)。神は一切の穢れや不足欠点とは無縁の完全無欠の方であり、真善美の本源、愛そのものである。本来、神の聖性は人知を無限に超えたものであるから、人間の言葉では十分にこれを言い表すことはできない神秘であって、類比をもってのみこれを理解することができる。従って、神の本質は「一切の被造物と同じものではない」という、否定的な言い方でしか表現できないとされる。否定神学が成り立つゆえんである。そういう意味では、禅仏教の無の思想にも通じるものがあると言われる。
しかし、この近付きがたい超越的な人格神である神は、自らお造りになった世界を愛し、これに近付いて歴史に介入し、人間の言葉をもって語りかける。新旧約聖書はその証である。「神は、昔、預言者たちを通して、いろいろな時に、いろいろな方法で先祖たちに語られたが、この『終わりの時代』には御子を通してわたしたちん語られました」(ヘブライ1,1)と聖書は証言する。こうして。神の言葉を信じる人びとは、この世の一切のものが聖なる神の栄光を称えるものであることを認める。「われわれは神のうちに生き、動き、存在する」(使徒行録17,28)と聖書は言う。そして詩篇は歌う。「天は神の栄光を語り、大空は御手の業を告げる」(詩篇19,1)。
遂に、この近付きがたい超越の神は、この世を愛し、お遣わしになった御独り子を通して、見える形でわたしたちにご自分を現わされた。「キリストは人間の手をもって働き、人間の頭をもって考え、人間の意思をもって行動し、人間の心をもって愛した。かれは処女マリアより生まれ、真実にわれわれのひとりとなり、罪を除いては、すべてにおいてわれわれと同じであった」(現代世界憲章22)。このように、御子キリストの一挙手一投足が神の栄光を現わす神秘となった。中でも、その苦難と十字架上の死は、人類に対する神の至高の愛の証しとなって輝いている(ヨハネ13,1参照)。ご受難の前に主も祈られた。「父よ、あなたの名の栄光を現わしてください」(ヨハネ12,28)。
このような、被造世界の隅々にまでしみ込んでいる神の栄光と、キリストの生涯において、特にそのクライマックスである十字架の秘義において示された神の栄光の神秘を認め称えるためには、人間自身がキリストを信じ、洗礼を受けて神の聖性にあずかり、身をもって神の栄光を現わすしかない。教父の一人は述べている。「わたしたちは『み名が聖とされますように』と言う。それはわたしたちの祈りによって神が聖なる者とされるよう願い求めるという意味ではなく、神の名がわたしたちの中で聖とされるよう主に願い求めるという意味である。・・神は言われる。『聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである』(レビ11,44)」(聖チプリアノ司教殉教者の論述「主の祈りについて」)。すでに聖パウロは言っている。「あなたがたは(洗礼によって)洗い清められたのです。聖なる者とされたのです。主イエズス・キリストの名によって、また、神の霊によって、神との正しい関係にある者とされたのです」(1コリント6,11)。だから、「み名が聖とされますように」というこの簡潔な願いの中には、絶えざる成聖への努力とともに、御名を世に広めるために献身するという、並々ならぬ決意が秘められていなければならないのではないか。
カテキズムの中の神の第二のおきてには「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とあるが、「信仰者が信仰についての教養を怠り、教理をまちがって解説し、宗教的、道徳的、社会生活において欠けるようなことがあるとき、神と宗教の真の姿を示すよりは、かえって隠すのである」(現代世界憲章19)という指摘が気にかかる。だから、「み名が聖とされますように」と唱えるとき、安易に、ただ習慣的に流れることなく、折々に、思いを新たにして、真剣に祈ることを心掛けたい。