第二の願い “み国が来ますように”
カテゴリー 折々の想い 公開 [2010/08/10/ 00:00]
さて、「み国」とは、ラテン語では「あなたの国」(regnum tuum)であり、つまり「神の国」の意である。「神の国」の原語はギリシャ語でバシレイア(Basileia)。『カトリック教会のカテキズム』は次のように説明している。
「新約聖書のバシレイアという言葉は、「王権」(抽象名詞)とも、「王国」(具象名詞)とも、「王による支配」(行為を示す名詞)とも翻訳することができます。神の国はわたしたちに先だって存在し、人となられたみ言葉にあって近いものとなり、福音全体を通して告知され、キリストの死と復活によって到来しました。その神の国は、イエスの最後の晩餐以来、感謝の祭儀(ミサ)の中でも到来しており、わたしたちのただ中に存在します。神の国はまた、キリストが御父にこれをお返しになるときに栄光を帯びて到来します」(n.2816)。
イエス・キリストは宣教活動の初めに「神の国は近づいた」と宣言された。その辺りの事情をマルコ福音書は次のように述べる。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(マルコ1,14-15)。
「ヨハネが捕らえられた後」という言葉は意味深長である。ヨハネとはもちろん「洗礼者ヨハネ」であり、旧約時代最後の預言者であって、キリストに洗礼を授けて後、捕らえられてその使命を終えた。こうして、神が定めた時が来て、キリストの時代、新約時代が始まるのである。そのキリストの第一声が「神の国は近づいた」だったのである。「福音」とは「良い知らせ」の意であり、神の国のついての神からの良い知らせのことである。そして、神の国の福音にあずかるためには「悔い改め」と「信仰」が必要である。悔い改めとは全面的な神への立ち返りであり、信仰とは「幼子のような」無条件の信頼をもって神の国を受け入れることである。主は言われた。「あなたたちによく言っておく。幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10,15)。
神の国の到来はまた、神にとっては天地万物の創造の完成であって、神の最高の栄光をもたらすものであると同時に、人間にとっては救いそのものであって、追い求めるべき第一にして最大の目的である。だから主は、例えば真珠商のたとえをもって神の国の重要性を説かれた。「また、天の国(神の国)はよい真珠を捜し求める商人に似ている。その人は高価な真珠を一つ見出すと、持ち物をことごとく売りに行き、そしてそれを買う」(マタイ13,45-45)。全財産をはたいても手に入れる価値のあるもの、それが神の国である。
「神の国の到来はサタンの支配の破滅を意味します」とカテキズムは言う。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」(マタイ12,28)と主は言われた。神の国の到来は、自分の自由と力を乱用して神に反逆し、人類を惑わして神の国の到来を妨害した悪魔のたくらみにもかかわらず、神はそのご計画を必ず実現される。来るべき終末の日、栄光のキリストがこの世に再臨して神の国を完成し、御父にその国をお返しになる。栄光を帯びて神の国が現れるその日まで、サタンとの戦いは続く。キリストとともに神の国は到来したが、しかし、まだ来ていない、つまりまだ完成していないのである。
言うまでもなく、神の国の建設は聖霊の御業である。しかし、「(見えない)神の国の地上における芽生えと開始をなしている」(教会憲章5)教会も、見えない神の国・キリストの見えるしるしかつ道具(教会憲章1)として、全活動を神の国のためにささげていく。それは特にミサについて言われなければならない。「神の国は、イエスの最後の晩餐以来感謝の祭儀の中でも到来している」(カテキズムn.2816)。実に、「神の国を目指す」(教会憲章9)ことが教会の目的であり、存在理由だからである。
こうして、わたしたちが「み国が来ますように」と祈るとき、それはこの信仰と希望の表明であり、確信である。たとえ幾多の苦しみや悩みに取り囲まれ、もう駄目だと弱音を吐きたくなるときにも、信頼と勇気を失ってはならない。主は言われる。「あなたたちはこの世では苦しむ。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に打ち勝ったのである」(ヨハネ16,33)。