第三の願い “み心が天に行われる通り、地にも・・”

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第三の願い “み心が天に行われる通り、地にも・・”

カテゴリー 折々の想い 公開 [2010/08/25/ 00:00]

神のみことば

神のみことば

主の祈りの第三の願いは、「み心が天に行われる通り、地にも行われますように」である。この願いは「み国が来ますように」という第二の願いに含まれていたもので、マタイ福音書の主の祈りにおいては、これをいわば説明するものとして、第三の祈りとして付け加えられたものと考えられている。

「み心」とは「あなたの意思」(voluntas tua)、すなわち父なる神の「意思」のことである。神のご意思は神の「願望」とも「計画」とも言い換えてよい。カトリック教会のカテキズムは神のご意思について次のように要約している。

「御父のみこころとは、『すべての人が救われて真理を知るようになること』(1テモテ2,4)です。御父は、『一人も滅びないようにと、忍耐しておられるのです』(2ペトロ3,9)。他のあらゆるおきてを要約し、みこころのすべてをわたしたちに告げ知らせる神のおきてとは、神がわたしたちを愛してくださったようにわたしたちも互いに愛し合うというものです」(n.2822)。

要するに、聖書全体、そしてキリスト教全体が人類に対する神のご意思を告げているのであって、すべての人が救われて神の愛の共同体になること(神の国の到来)にほかならない。このことを前提に話を進めよう。

さて、「天」とは、純霊である天使たちや諸聖人のいわば霊の国を意味し、そこではすでに神のご意思が行われていることを示している。ここで思い出すのは黙示録の次のくだりである。「ときに、天では戦いが起こった。ミカエルとそのみ使いたちが、竜に戦いをいどんだのである。竜とその使いたちもこれに応戦したが、勝つ力がなく、もはや天には身の置き所もなかった。こうして、巨大な竜、すなわちサタンとも悪魔とも呼ばれ、全世界をまどわすあの昔の蛇は地に投げ落とされ、その使いたちも、もろともに投げ落とされた」(黙示録12,7-9)。

神のみ心は天において、もはや神に反する勢力はなく、神のご意思は完全に行われている。しかし、この地上では、天から追放されたサタンがこれを支配し、人間を惑わして神に反逆させ、神の御心の実現を妨害している。創世記に語られる人祖の堕落はそのことを示している。禁断の木の実を食べた人祖を詰問する神に向って、「蛇がだましたので、食べてしまいました」(創世記3,13)と女(エバ)は答えた。蛇とは悪魔を指すが、誘惑する悪魔に騙されて人間は神の意思を裏切り、自分の欲望にしたがって罪を犯したのである。

要するに、罪とは人間による自由意志の乱用であり、神の願望を無視して人間の願望を優先することである。神のご意思か、人間の意思か、その葛藤の中にある人間を救うのは神ご自身であり、その使命を果たされたのが人となった神の子・イエス・キリストである。イエスは言われた、とヘブライ書は証言する。「ご覧ください、わたしは来ました。神よ、御心を行うために」(ヘブライ10,7)。そして、ご受難の直前に祈られる。「わたしからこの杯を取りのけてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、思し召しのままに」(マルコ14,36)。さらに聖書は言う。「死に至るまで、十字架の死に至るまで、へりくだって従う者となった」(フィリッピ2,8)。そこでカテキズムは言う。「御父のみこころは、キリストにおいて、またその人としての意思を通して、完全に、また決定的に成就されました」(カテキズムn.1824)。

このようにして、人となった神の子は全生涯を通して神のみこころを見える形で具体的に実践して救いの業を全うすると同時に、わたしたちの模範となられた。だから弟子たちに命じて言われた。「わたしは新しいおきてをあなたたちに与える。わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13,34)。ここに、行われるべき神のみこころがある。そしてすべての人間がこの愛にあずかるよう呼ばれている。弟子たちばかりでなく、すべて諸宗教の人も無神論者も、善人も悪人も、一人の例外もなく招かれている。

神の国を王子の結婚披露宴にたとえて、キリストは言われる。「王はしもべたちに言った。『大通りに出て行き、おまえたちが出会う人はだれでもよいから、披露宴に来るように招け』と。そこで弟子たちは道に出て行き、出会う人を皆、良い人も悪い人も、集めて来た」(マタイ22,10)。しかし、このたとえでは、婚礼の礼服を着ていない者は婚宴から締め出されることになっている。つまり、回心と信仰をもってキリストとその愛に結ばれていることが神の国に入るたった一つの条件である。救われるか救われないか、最終的には各個人の自由と責任の問題であるということであろう。