第五の願い “わたしたちの罪をおゆるしください、わたしたちも人を…”
カテゴリー 折々の想い 公開 [2010/09/25/ 00:00]
今回も「主の祈り」の続きの話で、その第五の願い、すなわち、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」について考える。はじめに見たとおり、「主の祈り」は「全福音の要約」であるから、罪の赦しはキリスト教信仰の本質に属する重要な五つのテーマの一つである。
さて、愛によって愛のために人類を創造した神は、その愛によって人類を罪とその罰から解放し、神のいのちにあずからせるという創造の目的を完遂される。赦しは神の愛の別名であり、それは赦す愛であって、通常神のあわれみ、または神のいつくしみ(ともにMisericordia)と表現される。
「わたしたちの罪をおゆるしください」というこの第五の願いは、人類を愛し、人類の幸せを切に望んでおられる天の父への信頼の祈りである。キリストは断言された。「神はこの独り子を与えるほど、この世を愛した。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3,16)。人間の罪によって傷つけられた神の正義は、神の独り子を十字架の犠牲に供するという、わたしたちの想像を絶する無限の「赦す愛」によって保障されたのである。
しかし、罪びとであるわたしたちが神のゆるしにあずかるためには二つの条件が必要である。それは、神の赦しに限界があるからではなく、人間が自由な存在であるがゆえに、赦しにふさわしい心構えを造らなければならないからである。
罪をゆるしていただくための一つ目の条件は、自分が罪びとであることを認めて告白することである。周知の通り、洗礼の秘跡によって人は原罪と自罪のすべてをその罰とともに完全に赦され、主キリストに結ばれて聖なるものとされる。洗礼式で授与される白衣がそれを象徴している。しかし、洗礼後も地上にある間、人間は弱い。原罪の傷跡を身に帯び、無くなることはないから理性も意思も弱められており、悪へ傾き、内外の誘惑に取り囲まれている。だからしばしば罪を犯す存在である。洗礼後の罪の対する赦しのために「ゆるしを秘跡」が与えられていることの意味は大きい。
だから、心の底から回心して罪を告白し、赦しを願うことが必要なのである。このことの重要性を示す福音書の話がある。「二人の人が祈るために神殿に上った」。一人はファリザイ派の人で、自分の無罪を強調し、おきてに従う自分の生活を正当化したが、もう一人は徴税人で、胸を打ちながら「神よ、罪びとであるわたくしを憐れんでください」と願った。キリストは言われる。「あなたがたに言っておく。正しいとされて家に帰ったのは徴税人であって、ファリザイ派の人ではない」(ルカ18,9-14参照)。
罪のゆるしをいただくためのもう一つの条件は、わたしに対して罪を犯した人を赦すことである。新しい口語訳は、「わたしたちも人をゆるします」となっているが、ラテン語文を直訳すると、「わたしたちが人を赦すように(sicut)、わたしたちの罪を赦してください」となる。つまり、「わたしたちも人を赦しますから、わたしたちを赦してください」と言い換えてもよい。要するに、わたしたちが人をゆるさなければ、神もわたしたちをおゆるしにはならないということである。
『カトリック教会のカテキズム』は、その理由として、神への愛と隣人への愛とは分かち難く結ばれているからと強調し、ヨハネの言葉を引用している。「目に見える兄弟を愛さない人は、目に見えない神を愛することはできません」(1ヨハネ4,20)。そしてキリストは、隣人をゆるす愛は無制限でなければならないと言われる。「敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。それは、あなたがたが天におられる父の子であることを示すためである。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を上らせ、また、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせて下さるからである。…だから、天父が完全であるように、あなたがたも完全なものになりなさい」(マタイ5,44-48)。また、人の過ちを赦すのは七回までかと問われた主は言われる。「七回どころか、七の七十倍までも」(マタイ18,22)。つまり、際限なく赦せと言われた後、「わたしの天の父も、もしあなたたち一人びとりが、自分の兄弟を心からゆるさないならば、あなたたちに同じようになさるであろう」(同上35節)と言われた。