長崎最初の教会トードス・オス・サントス

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長崎最初の教会トードス・オス・サントス

カテゴリー 折々の想い 公開 [2010/11/10/ 00:00]

ロレンソ修道士の肖像

ロレンソ修道士の肖像

今や遥か昔の思い出になったが、わたしがはじめて主任司祭として赴任した長崎の八幡町教会の区域内に、長崎最初の教会トードス・オス・サントス跡(現在は春徳寺)があった。「時評」への書き込みに関連して長崎のキリシタン史に目を通しているうちに、この教会にあらためて興味をそそられた。

八幡町教会は1962年9月12日、わたしが赴任する時に、山口愛次郎大司教によって創建された小教区で、その管轄区域は長崎発祥の地域であり、管内にはキリシタン禁制の「方便」とされた諏訪神社(註1)があるなど、信者には悲しい思い出の地でもある。そこで、わたしの長崎時代に親交のあったディエゴ・パチェコ(帰化して結城了悟)神父(イエズス会司祭)の著書「キリシタン文化研究シリーズ16」に掲載された『九州のキリシタン史研究』(1977年)と、尊敬する先輩で一緒に教区報の仕事をした片岡弥吉先生の著書『日本キリシタン殉教史』(1980年)を参照しながら、長崎最初の教会の歴史をたどってみる。

両者とも、「長崎のキリシタン史は1567年(永禄10年)に始まる」と書いている。ザビエル渡来から18年後のこの年、ルイス・デ・アルメイダ修道士が長崎に来て、翌年まで布教し、500人ほどがキリシタンになった。そして翌1568年12月、京都最初の教会を建てたガスパル・ヴィレラ神父が長崎に来てアルメイダ修道士と交代した。

当時の長崎は現在の桜馬場と夫婦川町あたりの農漁村で人口わずか1500人、大村純忠の領地で、純忠の娘「とら」の婿、長崎甚左衛門純景が知行していた。村の背後にある唐渡山にその城砦があり、現在は「城の古址」(しろのこし)と呼ばれる。甚左衛門はアルメイダが来た時すでにキリシタンで、洗礼名をベルナルドと言った。「1563年、大村純忠が重臣25人と横瀬浦で洗礼を受けた時、純景もその中にいたのであろう」と片岡先生は推察している。

ヴィレラ神父の活動によって1569年には1500人のキリシタンを数えたというから、長崎全村がキリシタンになったということであろう。その年、甚左衛門は檀家のいない廃寺をヴィレラ神父に与えた。しばらくそのまま教会として使用していたが、間もなく改造して美しい教会の形にし、「トードス・オス・サントス」と命名した。現代風に訳せば“諸聖人教会”である。パチェコ神父はお寺の建て直しについて、「ある著者が言うように寺を焼き払ったことは事実ではない」とはっきり指摘している。

その後長崎は、港の真ん中に突き出した岬(長崎の名の由来)まで町が伸び、1571年、ベンチョル・デ・フィゲレイト神父は突端の波止場の傍に小さな聖堂を建てた。現在長崎県庁のあるところで、イエズス会の施設を持つ「被昇天の聖母教会」である。そして1580年、純忠は四百軒を数えた新しい町をイエズス会に寄進する。こうして長崎は秀吉に天領として没収される1587年までの7年間、イエズス会の知行となった。これをイエズス会による植民地支配と呼ぶ人もいるが、実際は地上的な支配のためではなく、宗教目的のための寄進であった。片岡先生は、「これは日本でもよく行われていた寺社に土地を寄付する習慣に倣ったもの」と説明している。

話がそれたが、長崎最初の教会「トードス・オス・サントス」の歴史は壊される1619年までのわずか半世紀であったが、その間の主な出来事を記憶にとどめておきたい。1574年、深堀の殿の長崎襲撃で焼かれ、再建される。1587年、秀吉の迫害の年には、セミナリヨとコレジオの一部が入る。1592年2月3日、その明快な論法と説得力をもって布教の第一線で活躍した修道士ロレンソがここで66年の生涯を閉じる。1602年、イエズス会の修練院がおかれる。1603年、大きな教会に建て替えられる。1612年、有馬から追放されたセミナリヨと宣教師たちが入る。1614年、フィリピンに追放されるキリシタン大名高山右近や宣教師たちが船待ちの数日間滞在する。

天領になった後も長崎はキリシタンの町として発展を続け、浦上を含めて16の教会と3か所の病院を擁するに至ったが、突然終焉の時を迎える。パチェコ神父は述べている。「1614年、長崎の教会が最も栄えていた時に、徳川家康は宣教師たちを追放し、礼拝堂その他のキリスト教と関係があった建物を壊すように命じた。1619年に長崎で再び殉教が始まった時、残っていた聖堂と病院は荒らされた」。このようにして、長崎の教会はいったん地上から消え、七代250年にわたる潜伏時代に入るが、特に浦上のキリシタンたちは厳しい探索と弾圧の試練に耐えて、遂に1865年、驚異の復活(信徒発見)を遂げるのである。

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(註1) 諏訪神社のインターネット情報「長崎くんちのはじめ」に次の数行がある。

「1634年(寛永11)、長崎奉行は諏訪神事「長崎くんち」を長崎町民の神事と認定、諏訪神は長崎の鎮守となり、町民は皆、氏子となった。諏訪神事の特別奨励はキリシタン宗門一掃の方便で、長崎奉行がキリシタン禁圧の為に進めた政策の一部であった」