クリスマスの話題・西暦紀元
カテゴリー 折々の想い 公開 [2010/12/10/ 00:00]
師走を迎え、ただでさえ心せわしいこの時期は、キリストのいない年中行事・クリスマス狂想曲が今年も喧しい。でも、わたしたちはキリストがいる本物のクリスマスの意義をしっかりと見つめて準備をしたいもの。そのために、今年は「西暦紀元」を話題に取り上げて考えて見たい。
歴史上で年を数える際の基準とする「紀元」は西暦だけではない。イスラムの世界では西暦622年のマホメットの聖遷(ヒジュラ)をイスラム紀元元年とし、わが国では神武天皇即位の年を西暦紀元前660年と定めて、これを皇紀元年と呼んだ。わたしが小学6年の年、皇紀2600年が祝われた記憶があるが、今は用いられていない。紀元節も廃止された。これに対し、世界的にはキリスト生誕の年を元年とする西暦紀元が使われている。
というわけで、人類の歴史はキリスト生誕を基準として前後二つに分けられ、キリスト以前をBC(before Christ)で表し、キリスト以後をAD(anno Domini )で表すことが慣行となっている。ADとは直訳すれば「主の年から」であるが、ずばり、これはキリスト紀元であって、キリストの生誕が歴史を二分する重大な出来事であることを意味しよう。それはなぜ?
西暦紀元の意味するところを尋ねるなら、何よりもまず「キリストの秘義」を考察しなければならない。「イエズスは真の人間であるが、ただの人間ではない」(Jesus est verus homo, sed non purus)。つまり、キリストは人となった神の子である。そこにキリストの秘義がある。人間となった神の子キリストにおいて、原罪によって分離されていた神と人間が、ここに一つに結ばれたのである。この事実は、人類の歴史にとって最も重要な出来事であり、人類の歴史をキリスト前とキリスト後とに二分する分水嶺となった出来事である。それはなぜか。この問いは、神の子はなぜ人間となってこの世に来られたかを問うことにほかならない。
その答えはキリストご自身に聞かなければならない。そしてその答えの中心は次の言葉に集約される。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じよ」(マルコ1,15)。神の国の到来の宣言である。受肉した神の子は神の国をこの世に持ち込み、公生活を通して言葉としるしをもって神の国について解き明かし、過越の秘義、つまり、その死と復活の秘義を通して神の国を確立された。そして人間は、悔い改めとキリストへの信仰を通して神の国に入り、神の養子としてその至福のいのちの団らんに招かれる。
神の国とは字義通りには「神の支配」を意味すると言われるが、その実態は、キリストを信じてこれに結ばれてキリストの王国を形成することと言ってよい。聖パウロは言う。「神は、ご意思に秘められた神秘を悟らせてくださいました。それは時が満ちて、キリストにおいて実現されるようにと、あらかじめ計画しておられたことです。その神秘とは、天にあるもの、地にあるもの、すべてのものを、キリストを頭として一つに結び合わせるということです」(エフェゾ1,8-10)。
この神の国、すなわちキリストの王国の到来は、天地創造のはじめから神のご意思の中に計画されていたもので、神の子の受肉とあがないの業によって実現することとなった。ヨハネ・パウロ2世が言うように、神の国の到来はまさに「キリストにおける第一の創造が完成して、新しい創造が始まったこと」(使徒的書簡『主の日』1)を意味する。キリストによる人類あがないと神の国の到来はふさわしく「第二の創造」とも呼ばれる。
こうして、人類は「キリスト以後」、新しい歩みを始めることになる。この新しい時代は「終末の時代」と言われ、教会の時代とも言われる。神の国のしるしであり道具である「教会」の宣教活動において、キリストは聖霊を通して神の子らを集め、神の国の完成を準備される。そして、その再臨と人類のからだの復活をもって神の国を完成される。聖パウロは言う。「その時、キリストは支配するものすべて、また、権力あるものや力あるものすべてを滅ぼし、国を父なる神におわたしになります」1コリント15,24)。「神がすべてにおいてすべてとなられるために」(同15,28)。
このように。神の子の受肉、すなわちキリストの誕生は、サタンが支配する「旧い世界」から、神が支配する「新しい世界」(神の国)への一度きりの歴史的転換の時であり、それがAD(キリスト紀元)なのである。わが国では「西暦」と訳しているが、それは西欧の紀元ではなく、まさにキリストによって始まる新しい世界の紀元である。こんな霊的かつ救済史的展望の中で主の降誕を祝うことができれば、今年のクリスマスはまた一段と意義深いものになるに違いない。