いのちを狙われた幼子イエス

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > いのちを狙われた幼子イエス

いのちを狙われた幼子イエス

カテゴリー 折々の想い 公開 [2010/12/25/ 00:00]

101225主の降誕祭は8日間祝われるが、その4日目の28日に、教会は「幼子殉教者」を記念する。いのちを狙われる幼子イエスの身代わりとして殺された幼子たちでる。み言葉の受肉を祝うこの時期に悲惨なこの事件が記念される意味は何か。

マタイ福音書によると、事のあらましは次の通りである。キリスト降誕の後、東方の三人の博士たち(新共同訳では“占星術の学者たち”)がエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と尋ねた。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も同様であった」。聖書の専門家である「司祭長たちや律法学者たち」に尋ねると、それはベトレヘムだという。

そこでヘロデは3人を密かに呼んで、星が現れた時期を尋ね、その子を見つけたら詳しく様子を知らせてくれと言って送り出した。3人は幼子を見つけてこれを拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた後、夢でお告げがあったのでヘロデのところには行かず、別の道を通って帰国した。キリストの王国は「この世のものではない」(ヨハネ18,36)ということを理解せず、自分の地上の王権を脅かすものと誤解して幼子を殺そうと考えていたヘロデは、裏切られたと知って怒り心頭に発し、「ベトレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残さず殺させた」。幼子イエスは、事件の寸前、お告げを受けてエジプトに避難していて無事だった。(以上、マタイ2,1-16)。

ある註解書によれば、当時、ベトレヘムとその周辺の人口は1000人ばかり、とすれば殺された幼子たちは20人ほどだったというが、幼子イエスが特定できなかったばかりに、とばっちりを受けて殺されたわけで、虐殺の狙いはひとえに幼子イエス・キリストであった。だから教会は、幼子たちはキリストのために殺された殉教者として、「六世紀ごろから、主の降誕の季節に、聖なる幼子たちを祝ってきた」(『毎日の読書』)。

さて、幼子イエスのいのちを狙った幼子たちの虐殺事件に隠された本当の意味、すなわちその秘義とはいったい何であったのか。ルカ福音書は、幼子イエスが生後40日目に神殿にささげられた時のこと、両親を迎えた老シメオンは、「異邦人を照らす光」として幼子を称えた後、母マリアに言った。「この子は、…反対を受けるしるしとして定められている。あなた自身の心も剣で貫かれる」(ルカ2,24)。「誕生の時からイエスは脅威や危険に直面した」(ヨハネ・パウロ2世『家庭への手紙』21)のである。

『カトリック教会のカテキズム』は解説する。「エジプトへの避難と嬰児の殺害は、光に逆らう闇の対立を表しています。『み言葉はご自分の民のところへ来られたが、民は受け入れなかった』(ヨハネ1-11)のです。キリストの全生涯は迫害の連続でした。弟子たちも(原文ではキリストに属する人々も)キリストとともに迫害を受けます」(n. 530)。

幼子殉教者の祝日に読まれる使徒ヨハネの第一の手紙の最後の一節は言う。「イエス・キリストこそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(1ヨハネ2,2)。原罪の結果である苦しみや死は、キリストにおいては救いの手段となる。つまり、キリストは全人類の罪を一身に負い、その罪を償うために苦難に身を委ね、十字架上に命をささげて人類をあがなわれる。そしてその苦難の生涯はすでに幼子の時から始まったのである。

一方、キリストに属する人々、すなわち弟子たちも、主の苦難と死にあずからなければならない。ステファノや使徒たちをはじめとして今日まで、実に無数の人々が殉教を遂げ、苦しむしもべ(イザヤ53,12)・キリストに結ばれていった。教会の歴史も殉教の歴史なのである。殉教に至らなくても、すべての信者が洗礼の時から主の苦しみと死の秘義にあずかっている。聖パウロは、「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって満たしています」(コロサイ1,24)と書いているが、幼子殉教者はそのはしりとされる。

キリストの弟子たちは今も世界各地で迫害に遭っている。第二第三のヘロデは絶えたことがない。先日もイラクにおけるキリスト者迫害の話が伝えられた。わが国では表立った迫害はない。だが、キリスト教への誤解と偏見は依然として存在する。秀吉がキリシタン迫害の根拠とした日本神国論を今ごろ持ち出す総理がいたり、不遜にも一神教批判をする幹事長がいたりする。政教分離を掲げながら祭政一致を強制した国家神道は現在も生きていると、東大教授島薗進氏は近著『国家神道と日本人』の中で書いている。殉教の覚悟はつねに必要である。その覚悟があれば、様々な困難や犠牲があっても信仰生活はいっそう喜ばしいものとなり、また、世間の風評を恐れて敗北主義に陥ることなく、大胆かつ明白にキリストを宣べ伝えることができるだろう。