幼きイエズス修道会 来日のころ
カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/01/25/ 00:00]
幼きイエズス修道会は、長崎大浦天主堂から歩いて10分ほどのところに修道院があったので、わたしが小神学生時代や新司祭のころ、身近に接してきた修道会である。鹿児島に赴任した41年前からは20数年にわたり、司教館に奉仕していただいたので、親近感はさらに増した。しかし、この修道会の由来、特にフランスから来日したころの経緯について知ることになり、一つの修道会の始まりや活動についての摂理の不思議さに感嘆ひとしおというこのごろである。
まず驚いたのは、会創立の困難な過程においてかの有名なアルスの聖司祭ヴィアンネー(1786-1859)の助言をいただいて決意を固めたというくだりである。思い悩んでいたシスター・アンティエの相談を受けた神父は、「神さまは、あなたをショファイユにお望みです。決してほかのところではありません。あなたは従順の道を歩いているのです。導かれるままに進みなさい。あなたは神のご計画を実現するために選ばれた器です。神のお望みのままに身を任せるならば、すべての困難は消えうせるでしょう」という確信に満ちた言葉に励まされて新しい修道会の創立を決意したという。こうして『ショファイユの幼きイエズス修道会』は、1859年9月14日、誕生した。
そして、長崎の国宝・大浦天主堂を建立し、そこでキリシタンの後裔と出会い、いわゆる「信徒発見」の生き証人であるプチジャン司教(1829-1884)は、若いころ、創立に向って準備していた修練女と志願者たちの養成にかかわっていたという史実がある。この縁が、やがてショファイユの幼きイエズス修道会の日本招へいにつながるのである。プチジャン神父はその一ヶ月後、「パリ外国宣教会」に入会し、翌1860年3月13日、二人の宣教師とともにボルドーの港から日本宣教への船旅に出る。尊王攘夷の嵐の真っただ中に沖縄についたプチジャン神父は、ようやく二年後横浜に上陸し、1863年7月下旬、長崎に赴任する。そして1866年、プチジャン神父は教皇ピオ9世によって司教に叙階され、日本駐在教皇代理に任命される。
長崎のキリシタン発見後に襲った迫害の嵐は、1873年(明治6年)に終わりを告げる。それからわずか4年後の1877年(明治10年)、幼きイエズス会の4人の修道女が51日間にわたる厳しい長旅の末、神戸に上陸し、居留地に近い雑居地にある小さな家で旅装を解く。驚くことに、翌日の晩に、一人の捨て子を連れてくるという知らせが入り、三日目に女の子が連れて来られ、こうして落ち着く間もないシスターたちの「無償の愛の活動」が開始される。3ヶ月後にはすでに8人の子供の世話をしていたという。当時の社会事情について、『神戸と聖書』(神戸新聞総合センター)の次の一文が紹介されている。
「明治八年のある日、ヴィリヨン神父が、生田神社の境内で瀕死の嬰児を抱えて泣いているみすぼらしい女に出会います。当時、関西地方に飢饉が起こり、極貧のため捨て子が続出していました。耶蘇教(キリスト教)の神父が捨て子の面倒をみてくれるという噂が広がり、教会の門前には毎日のように子供が捨てられました。しかし神父は、ひもじさを訴えて泣かれるとどうすることもできず、雙葉(ふたば)(横浜で貧困孤児養育施設を開設していた『サン・モール修道会』(現在の幼きイエス会)のシスターたちに世話を頼み、十か月のあいだに六十五人の子供たちを横浜に送りました。神父はなんとかして神戸にも修道女を迎えたいと望んでいましたが、ついに幼きイエズス修道会の四人を迎えることができたのです」
今でこそ、全国各地に国庫補助による社会福祉事業が展開されているが、日本に着いたばかりの、日本語もわからない外国人修道女たちに孤児の世話を任せなければならない時代があったこと偲ばせる話である。当時、横浜のほかに、長崎でも浦上キリシタンの配流が終わって荒廃したわが家に戻ったころ赤痢が流行し、発生した多くの孤児の養育にキリシタンの娘たち(のちの十字会)が活躍していた。わが国における児童福祉事業の先駆となった幼きイエズス修道会を始め、これらのカトリック関係の事業は今日も引き継がれとともに、カトリックの児童福祉・老人福祉・医療施設は全国合せて600余に及んでおり、公私の施設が拡充した今でも、そのキリスト的愛の証しとしての意義は失われていない。