教皇ヨハネ・パウロ2世の訪日30周年 (1)
カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/02/10/ 00:00]
今年いただいた年賀状の一枚に次の言葉があった。「教皇訪日から30年、昨日のことのようです。あっという間に30年もたったのですね」。そうだ。今年は教皇ヨハネ・パウロⅡ世の来日30年に当たる。3回にわたって振り返ってみたい。
振り返るための手元の資料は、主に『教皇訪日公式記録・ヨハネ・パウロⅡ世』(主婦の友社:写真)と『教皇ヨハネ・パウロ二世・訪日公式メッセージ』(中央出版社)の二つで、両書とも、当時わたしが担当していたカトリック広報委員会の監修となっている。公式記録の鮮やかな写真のページをめくり、20回に及ぶ公式メッセージを丹念に読みながら、当時の記憶をたどっている最中に、ヨハネ・パウロ2世の列福式が来る5月1日に行われるというニュースが飛び込んで来た。列福により、教皇訪日の振り返りに新たな光がさすことになった。
教皇訪日は30年前の1981年2月23日午後から26日夜までの三日半であった。教皇を日本にお招きしたのは日本司教団である。教皇は前年12月21日の「極東訪問予告のメッセージ」で、「私は、日本の里脇枢機卿および大司教、司教方のお招きにより、殉教の足跡をたどるため、日本に参ります」と述べられた。その国の司教団の招きで訪問するというのが習わしだったのである。そのときの日本司教団は枢機卿以下17人、そのうち12人が亡くなり、生存している後の5人も全員引退して、現役司教団には一人も残っていない。もちろん教皇も帰天されている。月日が経つのは早い。
教皇の訪日は、フィリイピン司教団と大統領の招きで、「聖トマスと15殉教者」の列福式を中心とするフィリピン訪問に続いて行われた。列福される16人の殉教者の中にフィリピン人ロレンソ・ルイスがいたためであるが、16人の殉教地は長崎である。教皇訪日はその殉教地への巡礼の形をとられたのである。ちなみに、16人の列福調査は長崎の山口愛次郎大司教を長として行われ、私は書記として調査委員会に参加したことを懐かしく思い起している。
こうして行われた教皇訪日の第一の目的は、殉教地巡礼を兼ねて、日本のカトリック教会を訪問することであった。そのときの日本のカトリック人口は約40万人、日本総人口の0,33パーセントでしかない。教皇は公式メッセージの中で何回も日本の教会のことを「小さき群れpusillus grex」(ルカ12,32)と呼ばれた。小さな群れではあるが、また小さいがゆえに、日本の教会の使命は貴重であり重大である。教皇はこの小さな日本の教会を励まし、力づけるために来られたのである。この教皇の心をわたしたちは決して忘れてはならない。教皇は日本司教団との会合を始め、司祭・修道者、修道女、信徒代表に対して適切なメッセージを述べられ、東京後楽園におけるミサ、長崎では浦上教会における叙階式ミサと松山競技場における殉教者記念ミサにおいて、温かく、また力強く語りかけられた。
中でも長崎における殉教者を称える説教の中で、殉教地西坂の丘を「至福の丘」と呼び、日本26世殉教者、205人の福者、マニラで列福された16人殉教者など列挙しながら、確認されただけでも4000人(ラウレス)にも及ぶ日本の殉教者たちを称え、私たちを激励してくださった。殉教こそはキリスト教信仰の極致でありアイデンティティであって、たとえ血を流さずとも、神への愛と隣人への愛のために命をささげる心意気こそ、キリスト教生活の理想である。宣教が停滞し、司祭・修道者の召命が減し、結婚と家庭の霊性が失われていく現代、殉教的な信仰と愛を取り戻すことが日本の教会の急務である。
教皇訪日公式記録の中で、かの遠藤周作さんはいみじくも述べている。「繰り返して言うが、法王は日本に一粒の種を残していかれた。その種を放っておくか、それとも土に埋め、水を注ぎ、陽にあてるかは日本のカトリックの努力にかかっている」と。まさにその通りだが、そのためにも、教皇が司教団に述べた次の1節は重大であろう。教皇は、「皆さんの教区の諸教会で教理指導がよく行われるなら、他の一切は、もっとやりやすくなります」と言い、「必要なのはキリストとその教会の教えをはっきり告げることです」と言われた。迫害期間の長さと残酷さの点で、日本殉教史は世界に類を見ないと言われるが、そんな厳しさの中で歓喜のうちに殉教を遂げて行った信仰の証し人たちは、宣教師たちの徹底した教理指導に支えられていたのである。
いずれにせよ、教皇訪日は日本のカトリック教会にとって大きな恵みの時となった。訪日後,広報関係の打ち上げ会で、協力をお願いした電通の1人が、「訪日前、神父たちの間には異論も多かったが、教皇が来られるや否や日本の教会は一つになった。すごいことだと思う」と感想を述べたが、私も同じ思いであった。当時の日本の教会には、解放の神学や1968年のいわゆる「五月革命」などの影響があってか、既成の権威や伝統に反発し、教皇を軽んじる雰囲気が一部に見られたが、それが教皇来日によって一掃された。教皇の内面からほとばしる聖性の魅力に接し、その霊的な権威と深い愛に心打たれたのである。こうして日本の教会は、あらためて教皇と固く結ばれた。このことはいつまでも記憶され記念されなければならない。