四旬節・洗礼の準備と記念の季節
カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/03/25/ 00:00]
ここに言う「新たな観点」とは、「福音宣教」との関連において洗礼の意義を問うという観点である。これを考えさせてくれるのは、教皇パウロ6世の使徒的勧告『福音宣教』の教えである。パウロ6世は言う。
「教会にとって福音宣教とは、「良い知らせ」を人類のすべての階層にもたらし、「私はすべてを新しくする」(黙示録21,5)とあるように、人類を内部から変化させ、新しくするという意味を持っています」(18項)。「ですから、福音宣教の目的は、明らかに、この内的変化であります」(同上)。
この教えはまことに重大である。神の御子が人間となってこの世に来られたのは、個人の救いのためではなく、人類全体の救いのためであるという意味になる。換言すれば、世界を神の国に変えるために来られたという意味である。これが、いわゆる「神の国の福音」である。
同勧告は続けて言う。「もし、これを一つの文章で表現するならば、『教会が人々を回心させようと努めるとき、教会は福音宣教をしている』と言えるでしょう。すなわち教会が宣べ伝えるメッセージの神聖な力によって、人々の個人的な、また集団的な良心、彼らが従事する活動、彼らの生活や具体的環境を変えようと努めるときです」(18項)。
さらに次の項で言う。「教会にとって福音宣教とは、ただ単に宣教の地理的領域を拡大して、より多くの人々に布教することだけではなく、神のみ言葉と救いの計画に背く人間の判断基準、価値観、関心のまと、思想傾向、観念の源、生活様式などに福音の力によって影響を及ぼし、それらをいわば転倒させることであります」(19項)。
要するに、教会の本質的な使命である福音宣教の目的は、現世的な関心事に執着している人類を、全面的に神に回心させることにほかならない。従って、教会の布教活動によって洗礼(註1)を受け、教会に合体された信者たちは、自動的に教会の宣教活動に合流させられるのである。そこで、教皇は言われる。「しかし、まず最初に『洗礼を受け、福音にしたがった生き方によって新たにされた』(ロマ6,4ほか)新しい人々がいなければ、新しい人類は生まれません」(18項)。つまり、洗礼を受けて新たにされたキリスト者たちは、個人の救いのためではなく、人類を新たにする使命のために選ばれた人々であるという意味になろう。こうして、洗礼の秘跡自体が福音宣教のためであるという意味になる。
私はここで、第2バチカン公会議の『キリスト教的教育に関する宣言』(註2)の言葉を想起している。少し長くなるが引用してみよう。「水と聖霊から生まれることによって新たな被造物となり、神の子と名付けられ、実際に神の子であるすべてのキリスト信者は、キリスト教的教育を受ける権利を持っている。このキリスト教的教育は、上述の人間の完成を追求するだけでなく、主として次のような目的をもっている。すなわち受洗した者が徐々に救いの秘義を認識するように導かれながら、受けた信仰のたまものを日を追ってより良く意識するよう、特に典礼祭儀において霊と真理とをもって父なる神を礼拝するよう学ぶこと、自己の生活を正義とまことの聖徳においてつくられた新しい人に従って形成することである。こうして、彼らはキリストの全き背丈にまで全き人間となり、神秘体の発展に力を尽くし、さらに自己の召命を自覚し、彼らの中にある希望の証しを立てるとともに、世のキリスト教化を助けることになれなければならない。まさにこのキリスト教化によって、自然的な価値も、キリストによってあがなわれた人間の全体的な考察に取り入れられてこそ、社会全体の福祉に貢献するのである。
一言にして言えば、洗礼の目的は、「典礼」と「社会の福音化」(人類の刷新)であるということである。四旬節における洗礼の準備と記念は、上記のようなキリスト教的教育と一体のもとして理解される必要がある。
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(註1) この記事で「洗礼」というとき、それは入信の3秘跡、すなわち洗礼、堅信、聖体の三秘跡として理解されなければならない。堅信の秘跡は福音宣教という使徒的使命への派遣であり、聖体の秘跡は典礼の中心であってキリスト教的生活の頂点をなしている。
(註2) ここに言う「キリスト教的教育」とは、キリスト教の「信仰教育」、狭義には「要理教育」(カテケージス)と理解してよい。要理教育は、告知された福音のさらに詳細な解説によって生きた信仰を養成するものであって、これが欠けるとき、洗礼の再生による根源的な価値転換が中途半端になる恐れがある。