キリスト教のシンボル・十字架の神秘
カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/04/11/ 00:00]
キリスト教最大の祝日・キリストの復活祭は、今年はいつもより遅くて4月24日に祝われる。そして復活祭の爆発的な喜びは、それに先立つ「キリストの十字架」をどう見るかにかかっている。そこに、十字架がキリスト教のシンボルとなったわけもある。では、「十字架の神秘」とは何か。
周知の通り、イエス・キリストは十字架につけられて殺された。この十字架をどう見るか。聖パウロは言う。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユデア人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(1コリント1,23~24)。聖パウロのこの言葉は、キリストの十字架に対する人間の態度に三様のものがあることを示している。
1-ユデア人にはつまずき
旧約聖書を信じていたユデア人は、メシアの権能と栄光を表わすしるしを求めていた。ローマの支配からイスラエルを解放する強いメシアを待ち望んでいたのである。だから、呪いの十字架にかけられて苦しみ死んでいく弱いメシアなど理解することができず、つまずきの石でしかなかったのである。このことは、ユデア人ばかりでなく、強い神を信じるすべての人に通じる。
2-異邦人には愚かなこと
ここに言う異邦人とは、ギリシャ人に代表されるような人間の知恵を誇る人々のことで、純粋に人間理性によって獲得される哲学体系は全宇宙を説明し、人間の心のすべての願望を満たしうると考えている。こう言う人々にとって、神が十字架の刑に服するなど、狂気の沙汰であり、愚劣きわまることであった。近代合理主義を信奉する人々はギリシャ人と同じく、人間理性の神からの自立(autonomia )を主張し、科学技術の力をもって地上の楽園を築けるとうそぶいていた。しかし、その願望が実現することはおよそ不可能であると言わなければならないだろう。
3-召された者には神の力、神の知恵
召された者とは、神の招きにこたえて復活のキリストを信じる人々である。すなわち、キリストの召された使徒たちは、受難と復活に関する主の予告を信じることができずに戸惑い、主の十字架の死に直面してつまずいてしまった。しかし、復活して生きている主に出会い、聖霊のたまものを受けて、十字架の意味を悟ることができた。聖霊降臨の日、ペトロは力強く主の復活を宣言して語った。「あなたがたは神の定めた計画と予知とによって、あなたがたに渡されたこのイエズスを、不法な人々の手で十字架につけて殺しました。しかし、神はイエズスを復活させ、死の苦しみから解き放ちました。イエズスが死に支配されているなどと言うことは、あり得ないからです」(使徒言行録2,23-24)。
このように、十字架上のイエズスの死はその復活と固く結ばれており、復活を通して十字架の真の意味と力が明らかにされたのである。そして十字架に隠された本当の意味と力とは、人類をその罪から購い、復活のいのちへと導くことであった。そこにまた神の知恵、すなわち、人間を自らの似姿として知恵と自由を備えたペルソナに造られた神は、人間がその自由を乱用して神に逆らい、死に定められることを予測して、受肉して人となった御子の十字架の死を通して人類を罪と死から解放し、ご自分の子らとして迎えるという壮大なご計画があったのである。
そして何よりも、キリストの十字架には父なる神の人類に対する愛が輝いている。主は言われた。「神は独り子を与えるほど」世を愛した。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3,16)。自らの罪によって死に定められた人類を、父なる神は御子の十字架の犠牲を通して永遠のいのちに導かれるのである。だから教会は、十字架の神秘を称えて歌い続けてきた。「めでたきかな主の十字架、われらの唯一の望み“O Crux,Ave,Spes unica”(賛歌Vexilla Regis)。キリストの十字架のほかに、人間の生きる道はない。
だから、教会が、人類の歴史の中心であり頂点であるとするキリストの十字架は、まさにキリスト教の本質を成す「過越の神秘」のシンボルであると同時に、人類の唯一の輝かしい希望のシンボルなのである。