“イエスは生きておられる”

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > “イエスは生きておられる”

“イエスは生きておられる”

カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/05/10/ 00:00]

聖体の両形態

聖体の両形態

「婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻ってきました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです」(ルカ24,22-23)。十字架に釘づけにされて殺されたイエスの復活を物語る聖書の一節である。

わたしたちはさる4月24日に、世界中でイエス・キリストの復活を記念し祝ったが、この祝いは来る6月12日の聖霊降臨祭までの50日間続けられる。この期間が「復活節」である。この典礼季節におけるわたしの想いは、何よりも「キリストは今もわたしたちと共に生きておられる」ということである。この思いは恐らくすべてキリストを信じる人々に共通の想いではないだろうか。

主キリストは復活後、弟子たちとの別れ際に言われたことがある。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいるのである」(マタイ28,20)。教会はこのお約束の実現を固く信じ、キリストがその言葉と霊の力を通して教会に現存することを次のように教えている。

「『わたしたちのために、死んで復活し、神の右の座にあって取りなしてくださるキリスト・イエス』(ローマ8,34)は、多様な仕方でその教会に現存しておられます。すなわち、その言葉の中に、その教会の祈りの中に、『二人または三人がわたしの名によって集まるところに』(マタイ18,20)、貧しい人の中に、 病人たちの中に、囚人たちの中に(マタイ25,31-46)、キリストが制定した諸秘跡の中に、ミサ聖祭とその司式者の中に現存しておられます。しかし、 『最高の仕方で、聖体の両形態のもとに現存したおられます』(典礼憲章7)」(『カトリック教会のカテキズム』n.1373―筆者訳)。

続けて、聖体の両形態におけるキリストの現存が特別・最高の仕方であることについて次のように教えている。

「聖体の両形態におけるキリストの現存の仕方は独特です。それ故、聖体の秘跡は他の一切の秘跡の上位に位置し、事実上、『いわば霊的生活の完成、そしてすべての秘跡が目指す目的』(聖トマス・アクイナス)となります。至聖なる聖体の秘跡の中には、『わたしたちの主イエス・キリストの魂と神性とともにそのからだ と血が真に、実在的に、実体的に、従って、キリストの全体が含まれています』(トリエント公会議)。『この現存を「実在的」と呼ぶのは、聖体以外のすべての現存が「実在的」ではないかのようにこれを除外するのではなく、聖体の現存が実体的であり、また、その現存によって神であり人であるキリストがすべてそこに現存するという意味で、卓越的であるということです』(パウロ6世)。(『カトリック教会のカテキズム』n.1374―筆者訳)。

長々と公文書を引用したが、ついでに、教会におけるキリストの現存について典礼憲章の表現を引用しておこう。

「このような偉大なわざ(筆者註・救いのわざ)を成就するため、キリストは、常にご自分の教会とともにいまし、特に典礼行為に現存しておられる。キリストはミ サの犠牲のうちに現存しておられる。それは、「かつて十字架上でご自分をささげられた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として」司祭のうちに現存するとともに、また特に、聖体の両形態のもとに現存しておられるのである。諸秘跡のうちにキリストは、ご自分の力をもって現存しておられる。すなわち、たれかが洗礼を授けるとき、キリストご自身が洗礼をお授けになるのである。キリストはご自分の言葉のうちに現存しておられる。それは、聖書が教会で読まれる時には、キリストご自身が語られるからである。なおキリストは、教会が懇願し、賛美をうたうときにも、現存しておられる。「わたしの名によって、 二・三人が集まる所に、わたしもそのうちにいる」(マタイ18,20)と約束されたからである》典礼憲章n.7」。

キリストを信じている人々は、肉眼で見える現世に生きていると同時に、信仰によらなければ見えない霊の世界を生きている。そして霊の世界には、唯一の世の救い主であり、そのために人となって死んで復活された主イエス・キリストが、今もわたしたちとともに生きておられて、救いを実現してくださることを信じて疑わないのである。