“大いなる旅路の旅仲間”

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“大いなる旅路の旅仲間”

カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/05/25/ 00:00]

祈る信者の共同体

祈る信者の共同体

「わたしたちは、信仰に基づいた共同体を築かねばなりません。…信仰の交わりを求めてください。わたしたちは、あの大いなる旅路をともに歩み続けようとしている旅の仲間ですから」。これは、先日、わたしの読書会で話題になった教皇ベネディクト16世の『霊的講話集2005』の中の言葉である。

ここにいう「大いなる旅路」とは、終末に向ってキリストに導かれる人類の歴史のことで、人類の歩みを旅路にたとえたものである。キリストは二千年前、十字架の死と栄光の復活をもって人類をあがない、聖霊の派遣と教会の派遣をもって人類の新しい歴史を始められた。つまり、サタンに惑わされて目的を見失った人類は、救い主キリストによって再び目的を与えられ、新しい大いなる旅路を歩み始めたのである。

この人類の新しい目的とは、いろいろの表現で示されている。中心的な表現は「神の国」である。宣教の始め、イエスは言われた。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1,15)。この神の国とは「神の支配」を意味し、罪によってサタンの支配下にあった世界はキリストあがないによって神の支配下に移されるのである。そしてこの神の愛の計画は、キリストの死と復活をもって成就され、聖霊の派遣と教会の派遣によってこの地上に、人類の現実の歴史の中に打ち建てられたのである。

しかし、神の国はいまだ未完成である。完成されるのは世の終末、キリストの再臨によって実現する。「神の国はすでに来ているが、しかしまだ来ていない」と言われるゆえんである。全聖書は「主イエスよ、来てください」(黙示録22,20)という、切実な、しかし信頼に満ちたキリスト待望の言葉で結ばれている。そして教会は、「み国が来ますように」(主の祈り)と祈り続けているのである。

従って、わたしたち人類は主の昇天から再臨に至るまでの中間に位置している。この時代は「終末の時代」と呼ばれ、「教会の時代」とも呼ばれる。主イエスは聖霊を通して教会に現存しておられ、ご自分の体である教会を「目に見えるしるしかつ道具」(教会憲章1)としてその救いの聖なる事業を地上に継続し、その完成に日に備えておられるのである。その日がいつ来るか、御父のほかには誰も知らない。「その時」について弟子たちに問われた主は言われた。「父がご自分の権威によってお定めになった時や時期は、あなた方の知る所ではない。しかし、聖霊があなたがたの上に降る時、あなたがたは力を受けて、エルサレムと全ユダヤとサマリア、および地の果てまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行録1,7-8)。

いつ来るかわからない、しかし、約束によって必ずその日が来ることを信じて、教会は、神の国の到来のためにあまねく世界中で働いておられる主とその霊の「見えるしるしかつ道具」(秘跡)として、悪と闘いながら、み国が来ますようにと祈りながら、日夜励んでいるのである。この教会の姿を、人呼んで「旅する仲間」という。実に教会はばらばらの個人ではなく、それぞれその役割を弁えながら、世の中の隅々にまで神の国がうちたてられるよう協力する「旅する集団」であり「共同体」なのである。だから教皇は世界から集まった青年たちに、「信仰に基づいた共同体を築かねばなりません。信仰の交わりを求めてください。わたしたちは、あの大いなる旅路をともに歩み続けようとしている、旅の仲間なのですから」と言われたのである。

主の復活祭を祝い、聖霊降臨の祝日を真近かに控えた今、わたしたちは神の国の完成の日、聖書が「新しい天と新しい地」(黙示録21,1)と呼ぶその時を目指して協力できるよう、祈らなければならない。聖霊が降るその前に、「彼ら(使徒たち)は皆、婦人たちやイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、心を合わせてひたすら祈っていた」(使徒行録1,14)のである。