あらためて、キリスト教とは何か

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > あらためて、キリスト教とは何か

あらためて、キリスト教とは何か

カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/06/10/ 00:00]

キリスト教紹介雑誌

キリスト教紹介雑誌

キリスト教と言えば聖書、あるいは教会というのが常識である。『Pen』誌の『キリスト教とは何か』を見る限り、その感を強くする。そこでは、聖書や教会が美しい写真や名画でキリスト教が紹介されている。しかし、それだけだろうか。外観だけでキリスト教を批判する人もいるから、あらためてキリスト教とは何かを問うてみたい。

前々回に述べたように、イエスは教会の中に生きており、教会を通して働いて救いのわざを続けておられる。しかし、その姿を肉眼で見ることはできない。教会の中にイエス・キリストを確認できるのは「信仰」だけであって、信仰がなければ教会の外観をもってキリスト教を判断するしか手はないわけである。

信仰の観点からあらためて「キリスト教とは何か」を問うなら、それは端的に、「教会に生きているイエス・キリストを信じて生きること」だといえよう。したがって、教会の中に生きておられるキリストを信じるのでなければ、キリスト教とは何かを知ることができない。その上、キリスト教で信じられているイエス・キリストは単なる歴史上の人物ではないのである。確かにキリストは歴史上の人間であるが、同時に彼は人となった神の子であり、ヨハネ福音書では「神の言葉」(ロゴス)として紹介されている。そのようなものとしてキリストを信じて生きることが本当のキリスト教なのである。

そういう意味で、キリスト教は「神の言葉」の宗教とも呼ばれる。『カトリック教会のカテキズム』には、神の言葉とされる聖書の重要性を説いた後、次のように述べる。

「しかしながら、キリスト教信仰は「書物の宗教」ではありません。キリスト教は神の「言葉」の宗教であって、その言葉は、“書かれた無言の言葉ではなく、受肉して生きている神の言葉”(聖ベルナルド)です。神の言葉が死んだ文字とならないためには、生ける神の永遠の言葉であるキリストが、聖霊を通して、“聖書を悟らせるため人間の心の目を開いてくださる”(ルカ24,45)ことが必要です」(108項:筆者訳)。

さて、キリスト教が「神の言葉の宗教である」という点に注目したい。このことはつまり、キリスト教は神が語った言葉に始まることを意味する。聖書は証言する。「神は、昔、預言者たちを通して、いろいろな時に、いろいろな方法で先祖たちに語られたが、この終わりの時代には、御子を通してわたしたちに語られました」(ヘブライ1,1)。

ここに言う「預言者」とは神の言葉を聞いてこれを預かり、人々に伝える使命をもった人々で、単なる未来のことを予告する「予言者」ではない。旧約聖書は、この預言者たちをはじめ、神の霊感を受けた著者たちを通して語られた神の言葉であって、そこで神ご自身のこととともに、人類の救いの約束が語られている。そして、定められた時が来て、神の言葉そのものである御子が人間となってこの世に遣わされ、その行いと言葉のすべてをもって神と人間とについて啓示を全うし、その死と復活をもって人類の救いを成し遂げて、旧約聖書の言葉と約束を成就された。

このキリストを信じて生きるキリスト教は、その他の諸宗教とは本質的に異なる始原をもつ独特の宗教であり信仰であると言わなければならない。前教皇ヨハネ・パウロⅡ世は書いておられる。「ここに、他のいかなる宗教とも異なるキリスト教の本質的特徴があります。他の宗教は人間の側からの神の探究を一貫して語りますが、キリスト教の出発点は神の言葉の受肉です。それは、単に神を求めている人間の出来事ではなく、自らを人間に明かし、神に到達できる道を人間に示すため、人となった神の出来事です」(『紀元2000年の到来』6項)。

それゆえ、キリスト教を識別するためには、神の言葉を通して見えない「神の出来事」を見ることのできる「信仰」が必要なのである。事実、キリストご自身がその宣教活動の初めに、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1,15)と、信仰を求めておられる。「福音を信じる」とは「キリストを信じる」と同義である。神の国の福音とは、キリストによって地上にもたらされた神の支配の意味であって、この神の国に入ることが救いであり、新しいいのちの始まりだからである。使徒聖ヨハネが人となった神の言葉を「いのちの言葉」と呼んだのは当然のことであった。「始めからあったもの、また、わたしたちが聞き、目で見、みつめ、手で触れたいのちの言葉について、あなたがたに伝えます」(1ヨハネ1,1)。そして聖書は断言する。「実に、神の言葉は生きていて、力があり、両刃(もろは)の剣よりも鋭い」(ヘブライ4,12)。

人類とともに2千年の歴史を歩いてきた教会は、時にスキャンダルにまみれることもあったが、しかし、その教会の中に、罪の闇から人間を救う神の力、「いのちの言葉」がつねに輝いているのである。