「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > 「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」

「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」

カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/06/25/ 12:58]

ナザレのイエス

ナザレのイエス

過日、『史的イエスとナザレのイエス』(上智大学キリスト教文化研究所編)を寄贈していただいた。教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラッツィンガー著の『ナザレのイエス』についての論議であり、「史的イエス研究」の動向を知るよい機会となった。

教皇の著書『ナザレのイエス』については、イエスの公生活の後半を取り扱う第2巻の完結編がさる3月10日、公式に刊行されたとカトリック新聞が報じた。公生活の前半を扱う第1巻は、日本語訳(里野泰昭訳・春秋社)が昨年11月に発行されており、わたしも早速手に入れ、折々に参考しているが、今回、あらためて読み直す仕儀となった。

教皇の著書の特徴的な意義は、分離された「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」とを一致させるところにあるという。教皇の言い分を著書の「はじめに」から拾ってみよう。

「私の青年時代、すなわち30年代40年代においては、カール・アダム、ロマーノ・グァルディーニ…などなどの素晴らしい著作がありました。これらのすべての著作においては、一人の人間としてこの地上に生きた人間イエス・キリストの姿が、福音書の記述にしたがって描かれていました」。教皇はわたしより一つ年上で、司祭叙階もわたしより一年早い1951年だから、ほぼ同じ時代に神学校生活を送ったわけだが、あの頃は、人間イエスを信仰のキリストから引き離した19世紀以来の近代主義(modernism)を克服して、伝統的なイエス像が定着したかに見える時代であった。

「ところが50年代に入ると状況が変わってきました。「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」の間の裂け目が深まり、亀裂は日増しに増大してゆきました。…その結果、信仰の規範となるイエスの姿は曖昧なものとなり、…当然のことながら、福音書の諸伝承やその資料によってイエスの姿を再構成しようとする試みは、ますます互いに矛盾する対立的なものになってゆき、…イエスを反ローマ的な革命家から、無力な道徳教師にするまでになっています」。その結果、福音書に見られるようなイエスに対する信仰は、後世の造り話だという印象がキリスト教徒の中にも広まったとして、教皇は言われる。「このような状況は信仰の基盤を不確実なものとすることであり、信仰にとって危機的なものです」。

「歴史のイエス」という表現は、特定の歴史の中に真の人間として生きたイエスのことで、このイエスの歴史性は、キリスト教を「神話」から区別する「信仰の基本かつ基礎」である。教皇は、「“ことばは肉となった”という言葉によって私たちは、神が現実の歴史の中に実際に入ってきたのだという信仰を告白するのです」と言われ、したがって、人間イエスを探究する「批判的・歴史的」聖書解釈は必要であるけれど、そこには必然的に限界があり、人間イエスの中に神性を認める信仰による聖書解釈、いわゆる神学的な聖書解釈の必要があると言われる。これは、カトリック教会自身が第2バチカン公会議の『啓示憲章』(1965年)をはじめ、教皇庁立聖書委員会の二つの文書、「教会における聖書解釈」(1993年)と「キリスト教の聖書におけるユダヤの民族とその聖書」(2001年)で強調する聖書解釈の基本であって、教皇の『ナザレのイエス』は、不断に進歩する批判的・歴史的聖書研究の成果を参考にしながらも、あくまでカトリック教会の基本線に従って書かれている。教皇は言われる。

「福音書のイエスを真のイエス、本来の意味での「歴史のイエス」として描くことを試みました。このようにして示されたイエスの姿は、最近の数十年において私たちが出会ったどの再構成の試みより、はるかに論理的であり、歴史として見てもはるかに理解しやすいものであることを、読者にも納得していただけると確信し、希望しております」。

実際、『ナザレのイエス』を読んでみると、教皇が言われる通り、四つの福音書に描かれているイエスの重要な出来事の一つ一つを、歴史的事実に基づき、旧約聖書に始まる聖書全体と教会の信仰の伝承における一貫した関連の中で、信仰の観点から神学的に、その神秘を見事に解明して、イエスの真の姿を浮き彫りにしているのを実感する。こんなに豊かなイエス伝は今まで見たことがない。

神の理性に反抗して人間理性の「自立」を主張した近代合理主義の勃興以来、「生ける神の子キリスト」(マタイ16,16)イエスを、単なる過去の怪しげな人物に歪曲する試みが今も執拗に継続されているのである。それだけに、『ナザレのイエス』の出版意義は大きい。