初代主任司祭のころ
カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/10/25/ 00:00]
1962年の夏、初代主任司祭となって赴任するに際して、一番の問題は小教区の理念、すなわち小教区とは何であるか、であった。よい意味で伝統のしがらみのない新しい小教区づくりには、明確な小教区の理念は欠かせない。もちろんのこと、制度としての小教区はすでに確立されており、いろいろの小教区体験もあった。主任司祭の義務や権利、信者たちの務めについては、神学院において学んでおり問題は感じなかった。だが、わたしは小教区の理念を明確にしたかったのである。
そこで、参考にしたのは次の二冊の本であった。一つはRyckmans(リックマン神父)の著書”La Proisse Vivante”(生きている小教区)であり、もう一つはMichonneau(ミショノー神父)の著書”La Paroisse, Centre de la Mission”(小教区は宣教センター)であった。前者はわたしがカナダ留学の折に購入したもの、後者は長崎大司教館の書庫で見出したものであったが、両書とも、当時すでに始まっていた小教区の理念研究の成果であり、今思うと二書との出会いはまことに幸運であった。
前者、つまり『生きている小教区』から学んだのは、「小教区は霊的共同体である」という一事である。八幡町小教区が設立された年の10月に始まった第2バチカン公会議は、教会が「交わり」であり、「神は人々を個別的に、全く相互の連絡なしに聖とされ救われることではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することをよしとされた」(教会憲章9)と宣言したのであるが、人間は孤立してではなく、共同体として救われるという教えは新鮮であった。その公会議の直前でもあったので、実際には、人は個別的に救われていくといった、個人主義的な感覚は小教区司牧においても強く残っていたのである。
そこでわたしは、小教区は、主任司祭の独裁社会ではなく、有力者が牛耳る格差社会でもなく、聖霊によって同じ信仰と愛に結ばれ、永遠のみ国を目指して進む「旅する仲間」であり、互いに助け合う「愛の共同体」であるという理念のもとに小教区づくりに取り組むこととした。こうして、小教区の信者のうち誰一人として疎外されることなく、すべての、そして一人ひとりの信者が公平かつ平等に処遇される共同体づくりの基本として、班制度を設けることにした。幸いなことに、新設の小教区は総勢400人ぐらいの手ごろな共同体であったので、担当地域を八つに分けて八班とし、それぞれに班長と副班長を互選または指名して班員全員の世話を委託し、また班長会議を月に一回開催して、信者の動静、特に転出転入を確認し、小教区運営の諸問題について協議することとした。こうして、小教区の全所属信者の霊的物的ニーズに応える共同体を目指したが、そのモデルはあくまで「一人も乏しい者はなかった」(使徒行録4,36)と言われる初代教会であった。
後者、すなわち『小教区は布教センター』から学んだのは、小教区が管轄する地域の全住民がある意味で小教区民であり、宣教司牧の対象であるという、宣教的な小教区理念である。では、小教区の使命が福音宣教であるとはどういう意味なのか。それは、小教区自体を宣教事業として組織化することに他ならない。つまり、信徒全員参加の宣教事業を具体的に企画実践することである。そのためには、所属信者全員が共同体としての宣教使命を自覚すると同時に、小教区の計画に従って各自の能力とカリスマに応じた具体的な役割を果たすのでなければならない。
そこでわたしは、教会発足後の最初の説教で「新しい小教区の使命は地域の人々への宣教である」ことを告げ、また、上記の班制度の目的の一つに「近隣宣教」を掲げると同時に、多くの人が教会に行ってみたいと思うクリスマスを期して、深夜ミサとは別に、未信者のための「み言葉の祭儀」に「懇親パーティー」を合わせた「クリスマス・レセプション」を催し、信者たちが未信者の友だちをこの集いに案内するようお願いした。子供たちのためには降誕祭当日の午後「クリスマス子どもの集い」を開催して、教会の小・中学生が未信者の友だちをこれに案内するよう指導した。信者たちは大人も子供もこの企画に喜んで協力し、こうして、クリスマスには毎年、多くの地域住民が喜んで教会に集い、ともに神の言葉を聞いて主の降誕の喜びを分かち合うことができた。
以上はわたしが初代主任司祭として行った数々の企画のほんの一部にすぎないが、あれから半世紀、時代は変わったが小教区の使命は変わらないことを、しみじみと想う昨今である。