教会の典礼暦年について

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教会の典礼暦年について

カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/11/25/ 00:00]

典礼暦年に関する一般原則

典礼暦年に関する一般原則

カトリック教会には、一般暦のほかに「典礼暦」というもう一つの暦がある。典礼歴は、キリストの死と復活の神秘を頂点として、キリストの救いの神秘を一年周期で記念するもので「典礼暦年」(Annus liturgicus)という。それは王であるキリストの祭日(今年は20日)で終わり、待降節第一の主日(今年は27日)で始まる。

ここにいう「典礼」の原語liturgiaとは、もともと「公共の事業」、「公衆の名で、あるいは公衆のために行われる奉仕」を意味していたが、教会では、神の民が「神のわざ」に参与することを意味する。キリストは、教会の典礼を通してわたしたちのために救いのわざを続けられるからである(『カトリック教会のカテキズム』1069参照)。

また、ここにいう「キリストの神秘」とは、人となられた神の子イエス・キリストの生涯とその一つ一つの出来事を指している。人間イエスの生涯とその一つ一つの出来事には、神の子としての神性とその働きが隠されているからである。受肉の神秘とか過越の神秘などと呼ばれる。従って、イエスの人生は、見えない神の出来事、すなわち神秘の見えるしるし(痕跡)であることから、原秘跡と呼ばれる。教会という秘跡や、七つの秘跡の根源となる秘跡だからである。キリストの救いの業を引き継ぐ教会は広義の秘跡であり、救いの恵みを具体的に示しかつ与える七つの秘跡は狭義の秘跡である。こうして、典礼とは、キリストの救いの神秘を示し実現する秘跡の執行を意味することになる。

教会が執り行う典礼において記念されるキリストの神秘の中心かつ頂点をなすものは、キリストの死と復活を指す「過越の神秘」(あるいは復活秘儀)である。こうして、過越の神秘の記念(記憶と現在化)であるミサ(聖体の秘跡の祭儀)は典礼の「頂点であり源泉である」と言われる。ここで第2バチカン公会議の言葉を想起しよう。

「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉である。それは、使徒的な働きが目指すところは、すべての人が信仰と洗礼によって神の子となり、一つに集まって教会の中で神をたたえ、犠牲にあずかって主の晩餐を食するようになることだからである。

他方、典礼自身は、復活の諸秘跡に満たされた信者が、愛をもって一つの心に結ばれるよう励まし、信仰によって知ったことを生活において保ってゆくよう祈る。また、聖体祭儀によって行われる、主と人々との契約の更新は、信者をキリストの迫る愛に駆り立てて燃やすのである。それであるから、あたかも源泉からのごとく典礼、おもに聖体祭儀からわれわれに恩恵が注がれ、キリストにおける人間の聖化と神の栄光が、最も効果的に得られる。この神の栄光こそ、教会の他のすべての働きが目的として目指していることなのである」(典礼憲章10)。

典礼執行の「時」について第2バチカン公会議は述べる。

「愛の母なる教会は、神聖なるその花婿の救いのみ業を、一年を通して、一定の日に聖なる想起をもって祝うことを自己の務めとしている。毎週、教会は「主日」と名付けた日に主の復活を記念し、また、年に一度、復活祭の盛儀をもって主の幸いの受難とともにそれを祝い続けるのである。また、教会は一年を周期としてキリストの神秘全体を、すなわち、受肉と降誕から、昇天へ、ついで聖霊降臨へ、さらに、幸いなる希望と、主の来臨と待望へと展開しているのである。教会はこうして贖いの秘儀を記念しつつ、おのが主の徳と功徳との富を信者に開放するのであって、それによって、キリストの秘義が、あらゆる時に現存するものとなり、信者はこれに接して救いの恵みに満たされるに至るのである」(典礼憲章103)。

ここにいう、一年を周期として記念される「キリストの神秘全体」とは、はじめに述べたとおり、地上におけるイエスの生涯と出来事を指すのはもちろんであるが、しかし、その神秘は、「すべてのものはみ言葉によって造られた」(ヨハネ1,3)天地万物の創造の時から、「新しい天と新しい地」(黙示録21,1)が現れる「主の再臨」までの人類の全歴史を貫く「救いの歴史」を含むものであって、わたしたちは典礼暦年の記念を通して時間の始まりと終わりを展望し、永遠のいのちの神秘を観想している。だから、地上において数々の試練に遭いながらも、典礼暦年に従ってキリストの神秘に与り、その約束を信じるわたしたちは、つねに永生の確かな希望に生きているのである。