外に立って戸をたたくキリスト
カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/12/10/ 00:00]
イギリスのある大学に、戸口に立って戸をたたくキリストの絵が掲げられ–ているという話を、だいぶ前だが、何かで読んだ記憶がある。そういえば、そんな図柄の御絵もあった。待降節に当たって、そんな絵の話が思い出された。
話はこうだ。絵画ご披露の日、一人の人がこの絵を見て、ドアーに取っ手がないことに気づいた。そこで絵師に向かい、「ドアーに取っ手を書くのをお忘れになりましたね」と言うと、絵師は答えて、「忘れたのではありません。わざと取っ手を書かなかったのです。なぜなら、このドアーは人の心を表しています。人の心は本人が内側から開けなければ、誰も、たとえ神様でも、外側から開けることはできないのです」と言ったという。
なるほど、人の心には外から開ける取っ手はないとはよく言ったものだ。人の心は本人が内から開けなければ開けられないとは、人間が自由な主体として造られていう以上、当然なことである。神様も人間の創造者として誰よりも人間の自由を尊重される。だから、キリストも神の愛の具現者ではあるけれども、敢えて人の心をこじ開けられることはない。従って、本人が心を開かない限り、キリストの救いは実現しないということになる。
ところで、この絵の話は、どうやら聖書の言葉に由来するようである。聖書の最後の書、すなわち『ヨハネの黙示録』に次のような個所がある。「わたしは戸口に立ってたたいている。もし、だれかがわたしの声を聞いて戸を開くならば、わたしは彼のもとに入ってともに食事をし、その人もまたわたしとともに食事をする」(黙示録3,20)。
外に立って戸をたたくのは、人となった神の子イエス・キリストである。人間イエスは人間になった神の子、ペトロが、「あなたは生ける神の子、メシアです」と告白した通りで、イエスもこれを承認された(マタイ16,16-17)。またヨハネは、その福音書の冒頭で、「み言葉は人となり、われわれのうちに宿った」(ヨハネ1,14)と証言した。教会はこの出来事を「受肉の神秘」(以前は托身の玄義と訳された)と呼んでいるが、受肉の神秘の本質は、父なる神が人類救済のために御子(神の言葉)をこの世に派遣された神の愛の神秘である。主ご自身、「神はこの独り子を与えるほど、この世を愛した。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3,16)と言われた。
とすれば、キリスト教は徹底して神のイニシアチブであることが明らかとなる。このことを福者ヨハネ・パウロ2世は説明して言われる。「他の宗教は人間の側からの神の探求を一貫して語りますが、キリスト教の出発点はみ言葉の受肉です。それは、単に神を求めている人間の出来事ではなく、自らを人間に明かし、神に到達できる道を人間に示すための、人となった神の出来事なのです」(使徒的書簡『紀元2000年の到来』6)。この神の愛のイニシアチブこそ、主の来臨を待望するわたしたちの第一の思いでなければならない。
次に、人となった神の子イエス・キリストは、人間の救いを実現するために、すべての、そして一人ひとりの人間の心の戸をたたいておられる。人類の歴史の初めから終わりまでのすべての人間が救いに呼ばれているからである。そのために、キリストは教会を建ててこれを世に派遣し、「全世界に行き、すべての者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16,15)と命じられた。だから教会は今も福音を、すなわち主の言葉をあらゆる方法で宣べ伝えており、多くの人が、言葉で、書物で、各種メディアでキリストの言葉を聞いている。要は、人がキリストの言葉を聞いて心を開いてキリストを迎え入れるかどうかである。「もし、誰かがわたしの声を聞いて戸を開くならば、わたしは彼のもとに入って食事をともにし、その人もまたわたしとともに食事をする」(黙示録3,20)ことになる。
今年もクリスマスには大勢の人が洗礼を受け、キリストと聖霊を迎え入れて神の子となり、ミサにあずかって聖体を拝領するであろう。このみ言葉と聖体の食卓は、黙示録が「子羊の婚姻の晩餐」(黙示録19,9)と呼ぶ、神の子らの永遠の祝宴の前味である。この機会に、われわれキリスト者もあらためて心を開き(悔い改めて)キリストを迎え入れなければならない。
なお、教会の福音宣教の言葉に接することのできない人々については、第2バチカン公会議の次の言葉を想起しておこう。「このこと(キリストによる救い)は、キリスト信者についてばかりでなく、心の中に恩恵が見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。実際、キリストはすべての人のために死なれたのであり、人間の究極的召命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものでるから、聖霊は神のみが知りたもう方法によって、すべての人に復活秘儀(キリストとの出会い)にあずかる可能性を提供されることをわれわれは信じなければならない」(現代世界憲章22)。そこでも、救いのカギは人間が神の言葉を聞いて心の戸を開くか否かである。