「信仰年」告示の意味を考える

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「信仰年」告示の意味を考える

カテゴリー 折々の想い 公開 [2011/12/25/ 00:00]

『カトリック教会のカテキズム』教皇ベネディクト16世は、さる10月11日付の自発教令(Motu Proprio)『ポルタ・フィデイ・Porta Fidei』(信仰の門)によって、来年、すなわち2012年10月11日から2013年10月24日の「王であるキリスト」の祭日までの一年間を「信仰年」(Annus Fidei)にすることを早々に告示された。

この「信仰年」は、「第2バチカン公会議開幕50周年」とこの公会議の「真正な実り」である『カトリック教会のカテキズム』発布20周年を記念するものであると教皇は言われる。それにしても、この時に「信仰年」を開催する意味は何であるのか。教皇は言われる。それは、今の時代が「信仰の深刻な危機」にあるからだと。したがって、この深刻な信仰の危機を乗りきるために、あえてこの機会をとらえて信仰の門のくぐり直しを図り、合わせて新しい福音宣教に弾みをつけたいというのが教皇のお考えのようだ。

では、「深刻な信仰の危機」とは何を意味するのだろうか。教皇は言われる。かつてはキリスト教信仰を「社会生活の当然の前提」と考えられてきたが、いまや「この前提は当然のものではなく、しばしば公然と否定されている」と。この表現を見れば、教皇はたぶんヨーロッパにおけるキリスト教文化の衰退と世俗化の進行を指しておられるのではないか。その証拠に、現在もなお教会を離脱する信者が絶えないことをお意味しよう。先日のわが国の一般新聞でも、教皇のドイツ訪問に異議を唱える動きとか、オーストリアにおける大量の信者の教会離脱とかが報じられた。こうした信仰の危機的状態は、アメリカや日本など、経済先進国においても、大かれ少なかれ適合するものであろう。わが国における司祭・修道者の召命の減少傾向などはその証拠と言えるのではないか。

こうした信仰の危機を克服するために何が大切なのだろうか。この点、教皇は第2バチカン公会議による信仰の刷新のことを考えておられるようだ。第2バチカン公会議は、周知のように、新しい教義の宣言ではなく、聖書や聖伝に立ち返って信仰の原点に立ち、溜まった長年の垢を洗い落として教会を刷新すると同時に、新しい時代に開かれた教会にするために開催され、見事にその成果を収めたと考えられている。人類の発展の歴史とともに歩いてきた教会は、時として世俗の悪弊に染まり、宗教裁判や異教征伐など、暴力に与したことや、地上的な支配や権力にこだわったこともある。教皇は、さる10月17日、諸宗教指導者たちを迎えて行われたアシジの「平和祈祷集会」で、「歴史の中で、キリスト教信仰の名によって暴力が行使されたこともありました。わたしたちはそのことを大きな恥辱とともに認めます」と言われたが、第2バチカン公会議において教会は、過去の一切の過ちを反省するとともに、福音に基づいたより純粋なキリストの教会として新しい歩みを始めたのである。

従って、信仰の危機を乗り越えるためには、教会全体が第2バチカン公会議に立ち返り、その教えと方針を正しく学び直すことによって「信仰の門」をあらためてくぐり直さなければならない。信仰の門をくぐるとは、人間の視点から神の視点への転換を意味する。オーストリアにおける大量の信者の教会離脱を伝えるニュース記事の中で、彼らは幼児洗礼の後、信仰教育もなければ教会生活もなかったこと示唆していた。信じる内容を理解しない信仰は無意味である。聖アウグスチノは、「信じるために理解しなさい。理解するために信じなさい」(「説教」43,7-9)と言ったという。

そこで教皇は「信仰年」のための指針として、「真の信仰告白とその正しい解釈に関して、時代が深刻な困難に遭遇していることを意識して、『カトリック教会のカテキズム』のうちに体系的かつ有機的にまとめられた信仰の根本的内容を再発見し、研究するための真摯な努力を行わなければなりません」と勧めておられる。「信仰年」のもう一つの指針として、教皇は「キリスト教信仰を伝える新しい福音宣教」に言及しておられるが、第2バチカン公会議が教えた信仰こそが新しい福音宣教の内容であり、また、世界に開かれ、すべての文化や宗教を包括する公会議の対話路線こそ、新しい福音宣教の方針でなければならない。

そういう意味で、信者にとって、迎える新しい年の一年の計は、第2バチカン公会議の実りである『カトリック教会のカテキズム』の学習に取り掛かることではないかと思う。このカテキズムの学習は、大冊ゆえに時間がかかり、片手間では間に合わないからである。