祈りに込められた「教会一致」への思い

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祈りに込められた「教会一致」への思い

カテゴリー 折々の想い 公開 [2012/01/25/ 00:00]

祈祷集会(鴨池)

祈祷集会(鴨池)

前回は、「キリスト教一致祈祷週間」とその背景について述べたが、それに続いて、カトリック教会が典礼の中で祈っている「教会一致を願う祈り」について二つの例を取り上げて見たい。聖金曜日・主の受難の典礼の中の祈祷と、毎日のミサにおける「教会一致を求める祈り」である。

前者については、第2バチカン公会議の『エクメニズムに関する教令』を解説したP.ネメシェギ神父の言葉が適切なので、少々長いがそれを引用しておこう。

――カトリック教会では、毎年聖金曜日の荘厳な典礼の中で、種々の人々の上に神のいつくしみを願い求める共同祈願を唱えている。数年前(筆者注・第2バチカン公会議前)まで唱えられていた中世に作成された祈願のうちに、次の祈りがあった。「異端者、離教者のためにも祈ろう。わが神なる主がかれらを 謬説より救い、聖なる母である使徒継承の公教会に呼びもどしたまわんことを。すべての人を救い、ひとりも亡びるを望みたまわぬ全能永遠の神よ、悪魔のわなにたぶらかされた霊魂のうえに御目を投げたまえ。かれらが異端の悪を捨て、迷った心を改め、主の一致に帰るようはからいたまえ」。

 第2バチカン公会議の開催中にこの祈りは次のように変えられた。「キリストを信ずるすべての兄弟のために祈りましょう。われらの主なる神が真理を行おうとするこの人たちを主の唯一の教会に集め、そしてお守り下さいますように。全能にして永遠なる神よ、主は散らばりたるものを、ひとつに集めたもう。されば主のおりの羊らをかえりみたまえ。しかして唯一の洗礼によりて聖とされたるかれらを、また全き信仰と愛のきずなによりてひとつに結びたまえ」と。

これら新旧二つの祈りを比較すると、両者の間に顕著な相違のあることがわかる。古い祈りには「異端者」、「離教者」という語があったが、新しい祈りではそれが「キリストを信ずるすべての兄弟」に変わった。古い祈りでは「悪魔のわなにたぶらかされた霊魂」であり、「迷った心」の持ち主であるとされたものが、新しい祈りでは「洗礼によりて聖とされたもの」、「真理を行おうとする人たち」と呼ばれている。古い祈りではかれらが「謬説より救われ」、カトリック教会に「呼びもど」されることを祈り求めたが、新し祈りではかれらが「唯一の教会に集め」られ、「全き信仰と愛のきずなによりてひとつに結ば」れることを祈り求めている。新しい祈りも古い祈りと全く同じように、キリスト者の分裂に対する教会の心の痛みを表している。新し祈りは、分かれたキリスト者に対する教会の全く新しい態度を表しているといってよかろう。教会は今もなおキリスト者の間に存在している多くの点での不一致を決して忘れてはいないが、洗礼やキリストに対する信仰によってすべてのキリスト者がすでにある意味で一致し、したがってキリストにおいて兄弟であることを確信している。教会はさらに、分かれたこれらの兄弟たちも善意あるキリスト者であり、したがって神のみ旨を行おうとする人々であることを、確信をもって主張している。しかしこのような新しい見解は、すべてのキリスト者の完全な一致に対する教会の熱望を冷却することはない。かえって教会は、他のキリスト者たちを、遠く離れた関係の薄い人々とは見ずに、分かれた兄弟と見ることにより、そのような分かれた状態に絶えず心の痛みを覚えているのである。カトリック教会はもはや「われわれのもとへ帰れ」というような独善的な態度を示すことはなく、キリスト者の一致のために、自分の改革に勇気をもって着手し、将来すべてのキリスト者たちが、その中でこころよく交わりうるような、キリストの福音にいっそう忠実な教会の姿を形成するよう努力している――(公会議解説叢書(2)『世界に呼び掛ける教会』・中央出版社・現サンパウロ・1968)。

この解説文には、教会一致に賭けるカトリック教会の熱意のほどが見事に語られており、その祈りの心も余すところなく語られている。そしてこの祈りの心は、ミサの「交わりの儀」で、主の祈りとその副文の後に唱えられる「教会の平和を願う祈り」にも込められている。すなわち、「主イエズス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。『わたしの平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える』、わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み、おことばのとおり、教会に平和と一致をお与えください」と祈る。この祈りにある「罪」とは教会分裂の罪でもあることを思い、同じ信仰に生きる分かれた兄弟たちとの平和と一致も願われていることを忘れないようにしたい。