教会は「キリストの秘跡」

糸永真一司教のカトリック時評 > 折々の想い > 教会は「キリストの秘跡」

教会は「キリストの秘跡」

カテゴリー 折々の想い 公開 [2012/02/25/ 00:00]

公会議に参加した日本司教団

公会議に参加した日本司教団

周知の通り、第2バチカン公会議は、異端排斥や教義宣言を目的とした過去20回の公会議とは違って、「教会の本性と使命」を明らかにすることを目的とする、「司牧的な」公会議であった。その成果は特に「教会に関する教義憲章 Constitutio Dogmatica de Ecclesia」(略して『教会憲章』)の中に表れている。

教会憲章の中でもその第1条は、教会の本質と普遍的使命を端的に総括している。次の引用はその全文である。

「キリストは諸国民の光(Lumen Gentium)であるから、聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての造られたものに福音を告げることによって(マルコ16,15参照)、教会の面上に輝くキリストの光をもってすべえの人を照らすことを切に望む。教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具であるから、みずからの本性と普遍的使命とを、これまでの公会議の教えを守りつつ、その信者と全世界とに、より明らかに示そうとするのである。現代の状況は教会のこの義務をいっそう緊急なものにしている。それは社会・技術・文化の種々のきずなによって今日、より強く結ばれているすべての人が、キリストにおける完全な一致をも実現すべきだからである」(教会憲章1)。

ここで重要なのは、「教会はキリストのいわば秘跡(veliti sacramentum)、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である」という一節である。ここで教会とは、「父と子と聖霊の一致に基づいて一つに集められた民」であると同時に、位階制度をもつ見える集団である教会を意味するが、その教会は、実は見えないキリストの見えるしるしかつ道具なのだ、と言っている。だから、教会が秘跡であるというのは、教会の本性と使命が「秘義」であり、見えない部分に教会の真実があることを示している。

第2バチカン公会議の実りの一つである『典礼憲章』は、教会の秘跡性について次のように言う。「十字架上に眠るキリストの脇腹より、たえなる秘跡(mirabile sacramentum)である全教会が生じたのである」(典礼憲章5)。だから、教会が秘跡であるのは十字架のキリストから生まれたからであり、キリストの業を引き継ぐからである。換言すれば、キリストは聖霊を通して教会の中に生きておられ、教会を通して救いのわざを続けておられるという意味である。教会はキリストの恵みの効果的しるしなのである。

次に、ここに言われる「神との親密な交わりと全人類一致」とは、キリストのあがないの結果のことであり、この「神との一致、人類との一致」の実現こそ、秘跡である教会のただ一つの使命であり、目指す目的である。キリストは「散らばっている神の子らを一つに集めるために」(ヨハネ11,52)死んだのである。公会議は、この教会の使命が緊急を要するものであることを強調して、「現代の状況」は、物質文明の発達によって世界は一つに結ばれているという。人類一致に魂を入れる教会の出番が来ているとの認識であろう。

このように、第2バチカン公会議は教会憲章の冒頭において、教会の本質が「キリストの秘跡」であるとその秘義を示し、その使命が、自らの面上に輝くキリストの光をもって世界を照らし、人間を神との一致、全人類の一致に導くという、世界的使命であることを示したのである。第2バチカン公会議の他のすべえの教えは、この二点に集約することができる。だから、わたしたちが第2バチカン公会議を振り返るときは、信仰の心をふるい起して、キリストを中心とする教会の秘義に注目し、これを実感することが大切である。

同時に、このような教会の秘跡性と使命は、信徒、修道者、聖職者の別を問わず、各自、その身分と役割に応じて、個人で、または共同で、遂行するのである。たとえば、教会憲章の次の言葉を想起しよう。「キリストのからだの建設に関するすべての信者に共通の尊厳と働きの点では、すべての人は真に平等である」(n.32)。また、世俗に生きている信徒固有の使命については、「信徒によらなければ教会が地の塩となりえない場所と環境において、教会を存在させ活動的なものとすることが、特に信徒に与えられた使命である」(n.33)と述べる。信者はどこにいても、つねにキリストの秘跡、すなわち「キリストのしるしかつ道具」なのである。